「日本には中古の服なんか売ってないでしょう。」
「まだ使えるのに捨ててしまう文化と、こうしてリサイクルして使えなくなるまで使う文化とではどちらが先端を行ってると思う。決して恥じる事はないよ。」
僕はそんな会話を交わした事を覚えている。
木枠を一人が支えて立たせ、もう一人がスコップで土をすくって木枠の中の網に投げつけてゆく。すると木枠のこちら側には小石が落ち、向こう側にはわりと純粋な砂山が出来上がる。集められた砂の山に水を加え、それをショベルでこね、あらかじめ用意してある木枠の型にその泥を流し込む。木枠をひょいと取っ払うと土煉瓦がの形が出来上がる。あとはこれを天日干しすれば、日干し土煉瓦の出来上がりだ。土煉瓦は数百個単位で一気に作り上げる。そうして数日乾燥させて強度を高めてゆく。
日本昔話の中のお爺さんが薪を運ぶために使っていた木製のしょいこのようなものを背負い、そこに土煉瓦をのせて、はしごを使って2階まで運び、ルーフの縁に積み重ねて置いておく。
そして早速2階の壁部分から作ってゆく。親方が土煉瓦の一段目の高さに水平を取るための糸をピンと張る。煉瓦と煉瓦の継ぎ目はセメントではなく泥でつなぐ。2階に運んである砂に水を加え泥状になるまでスコップで練る。その泥をルーフの縁につなぎとして塗ってゆき、水平を取った糸に沿ってその上に煉瓦を置いてゆくのだが、ルーフ自体が傾いているので煉瓦の天場を揃えられるわけはなく、激しく高さが異なっている煉瓦は削って高さをなんとなく揃える。しかし少々傾いているからといって、何か不都合な事が起こるわけでもなく、別にどうって事ないわけだが、そんな些細な事を指摘する人なんかもおらず、どうでもいい見た目よりも、ここでは村人たちの間ののんびりしたあうんの呼吸の社会性を大切にしているのだ。
一段出来上がるごとに、糸の先っちょにベーゴマをくっ付けたような垂直を図る兵器を、建物の角から吊り下げて、真上から覗き込む。なんとなく垂直なら合格。多少垂直でなくても合格。なんか傾いてるなぁおかしいぁと感じても、親方は眉間にしわを寄せながら、そんな事は心の奥底に沈め自分だけの秘密にしておき、とりあえず合格。
計画では2階には4つの部屋とトイレが作られる。今は2つの部屋を一気に作っている。今年中に全部屋を作れたら良いのだが、作れなければ来年に持ち越しだ。作業は一年を通じて出来るわけではなく、厳しい冬がすぐそこまでやって来ている気配がするので、今年はきっと九月には切り上げとなる。ここでは納期があるわけでもなく、しかも昼食付きで、好きな時にさぼれて、のんびりとマイペースを貫く事ができるので、出稼ぎ大工さんにとっては天国なのだ。じっくりと作り上げているからといって出来がいいわけでもなく、いや日本の考え方にあてはめるととてつもなく悪い物件なのだが、先程も述べたように、だからといって何が起こるわけでもなく、どうって事ないのである。
次に窓枠を取り付ける作業に入る。窓枠は木で出来ていて近所のカーペンターの手によってしっかりと雑に作られる。カーペンターの職場には鉋(かんな)はあるは、のこぎりはあるは、斧はあるは、彫刻刀はあるは、巻き尺はあるは、でなんでもかんでも揃っているのだが、なぜか鉋(かんな)を入れた窓枠の背は反っており、彫刻刀で削った木と木の繋ぎめは大きく開いていて、右と左の枠の長さが多少違い、取って付けたように彫られた模様も所々ささくれが出来めくれ上がっている。そんな事が一々気になる僕がまだまだ修行不足でおかしいのである。そんな事は何一つ重要ではないのだ。そんなささいな事はすべて心の奥に沈めておいて、機会があるごとに捨ててしまえばいいいのである。きっと僕にはこの世界の絶妙な詫び寂びのあり方がまだわかってないだけなのである。飛び蹴りをすれば抜けるであろう鉄筋が入っていない土煉瓦の壁も、飛び蹴りをしなければいい話だけの事なのである。そんな初歩的な事が分かってない僕はまだまだ子供なのだ。
雲が低く垂れ込めて、まわりも仄かに暗くなってきた夕暮れ時、今日の作業も佳境に入ってゆく。若い大工さんたちはすでに終了モード全開で、一階のグランドで煙草を燻らせたり、携帯をいじったりしている。親方は黙々といまだ土煉瓦を積み上げている。雲の間から淡い光が漏れ、親方をチクタンの黄昏に照らし出す。逆行で暗く反射した親方の後ろ姿が日本の職人の後ろ姿と重なり、その黙して語らずの背中が、若い大工や僕らに何かを語りかけているようだった。
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