2014年11月3日月曜日

43.マナリ行きと世界のロングトレイル。


朝の4時半、僕はマナリ行きのおんぼろバスに飛び乗った。



ラダックはスリナガルの大洪水の影響で、ずっとインターネット回線の不通が続いている。明日は大丈夫だ、明日には開通するとのラダックの人々や僕たちの願いも虚しく、回線が途切れた状態の、山の孤島的状況となってから数週間が経つ。9月の2日から6日の間、ジャンムー&カシミール州のスリナガルからジャンムーにかけては暴れる海のような雨が降り、300人以上の死者と多数の行方不明者、そして隣接するパキスタン側でも多数の死者が出ているという情報がラダックに入ってきている。一時60万人以上の人々が陸の孤島となった地域に取り残されて、ライフラインも寸断され、依然インド軍による救出が続いていた。2000近くもの村が被災しているとのことだ。通信施設は広域で破壊されていて復旧できる見込みは当分ないという話も聞いている。きっと日本ではニュースのタイムラインには流れるが、次の日には誰も覚えていないのだろうなと思うと、少し悲しくなる。レーの街中では、自然発生的に街角のいたるところで災害援助のための募金スペースが出来上がっている。パキスタンも含めたこのエリアでは、近年カタストロフィー的洪水が多く発生するようになっている。特に2010年のパキスタン、インド(ラダック)での大洪水は、世界の災害史にも残るほどの、とてもひどいものだった。この地域の洪水はクライメート・バリアブル(自然な気象変動)の影響よりも、クライメート・チェンジ(人為的な気象変動)の影響が大きいとの報告もある。

2014年9月30日火曜日

「セヴァンの地球のなおし方」上映会

いわくらシネマ代表の本城です。

2014年10月19日(日)に「セヴァンの地球のなおし方」上映会があります。是非皆様のご参加をお待ちしております。



「どうやってなおすかわからないものを、壊し続けるのはもうやめてください」。1992年、リオデジャネイロで開催された地球サミットで、12歳の少女、セヴァン・スズキは大人たちに環境破壊を止めるよう訴えかけた。

その伝説のスピーチから、来年で20年。もうすぐ母親となるセヴァンは「大切なのは生活の質と健康、そして子供。だから私は自己中心的に、自分たちをどう救うかを考えていきたい」と、未来の子どもたちのために発言を続けている。セヴァンが今、世界に伝えたい

2014年9月17日水曜日

42.Workshop on glacier hazard in Stok village, Ladakh on 10th September 2014

満月の光が怪しく漂う雲とストク全体を照らしていたポーヤデイ(フルムーン・デイ)のあくる朝、にゃむしゃんの館でとあるワークショップが行われた。それは氷河による災害に関するワークショップで新潟大学の教授、奈良間氏による監修の元で開かれた。彼は教授というよりも登山家のアスリート然とした風貌の持ち主で、中央アジアを中心とした様々な山の氷河湖を調査しており、とても熱く山について語る横顔はまさしく山の男そのものであった。




ワークショップの参加者が集まると、まず始めに奈良間氏はヒマラヤ・レンジ全体の氷河の状況について語り始める。
「ネパールやブータンの氷河は大きく減っています。それとは対照的にカラコラム山脈の氷河は増えています。ここラダックはと言うと氷河が少しづつ減っていっています。」
そして教授は続ける。
「ラダックの1965年と2010年の氷河の大きさを比べると、天候の変化の影響で小さくなってきており、氷河の縁に小さな湖がいくつも出来てきています。」
「中央ラダックに氷河の数は237個、ヌブラには159個、ストクには6個、ザンスカールには73個で、ラダック全体の氷河湖の数は475個に及びます。」


41.にゃむしゃんの館。

にゃむしゃんの館。ストクの村のさらに奥、ストク・カングリへのトレッキング・ポイントの拠点となる場所にその素敵なゲスト・ハウスはある。日干し煉瓦壁に埋め込まれている古い木製の扉の上には暖かな文字でNEO LADAKH にゃむしゃんの館と書かれている。そんな扉を潜り抜けると目の前にラダックの伝統的な作りをした大きな家が古き良きライフスタイルを主張するかのごとくデンと建ってる。日干し土煉瓦で作られているその家の肌は、ラダックの目も眩むような青い空に良く映えるなにげに土香の薫る白色である。そんな壁に寄り添うように階段が付けられ、その足元には9月のはんなりと引き締まった空気の中、幾つものコスモスが気持ち良さげに揺れていた。

40.チクタン村とスイス・ツーリスト・キャラバン。

いつになく暖かいチクタンの朝の起きがけに、朝日が光のカーテンを干している屋上で、 Paul AusterのAuggie Wren's Christmas Storyを読んでいると、盲目のおばあさんがAuggieを抱き締めるくだりに来たところで、ジャファリ・アリの数十フィートほど先のフィールドから、僕を呼ぶ声が聞こえた。早速彼のところへ行ってみると
「今からキャラバン隊がくるので、この石積みの塀の幅をもっと広げて車がフィールドへ入ってこれるようにして欲しい。」
とこうくる。僕は石垣を崩しながら、石を塀の脇に放り投げていると、一台のトラックがタイヤを土に滑らせながら入ってくる。トラックはフィールドの中程で止まると、荷台からキャラバン隊のガイドたちが次から次へと飛び降り、見事な段取りでテントをいくつも設営してゆく。そして遅れるように入ってきたのがマウンテン・クロスに乗った八人のスイス人ツーリスト達だ。この八人のツーリストと七名のガイドとの合わせて十五名の大キャラバン隊は今日はチクタンで一泊、明日はラマユルで一泊、それからレーに戻る予定らしい。往復八日間かけてのキャラバン隊にサポートされながらのサイクリングだ。段々畑になっているフィールドの上段にキッチン・テントとティー・カウンターが併設されているレスト・テント、そして二段目に八人のツーリストたちのテントがいくつか設営されている。チクタン村でのこのフィールドから見える景色は、もっとも美しいとされる場所のひとつで、フィールドの小麦の秋の収穫は半分ほど終わってはいるが、その美しさは変わらず残っていて、奥にはチクタン城の後ろ姿が垣間見える。


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2014年9月1日月曜日

39.ゲストハウスの2階を作る。

チクタン村で僕はゲストハウスの2階部分を作っている。今回雇った大工さんは5名。みんなネパールからの労働者だ。まずは土干し煉瓦から作っていかなくてはならない。土をいろいろな場所から集めてくるところから始める。土は敷地の縁の部分を深く堀りそこから取ってきたり、段々畑の一部を崩してそこから取ってきたり、近くの川原から運んできたりする。もちろんそんな土は小石が混ざっているので除去しなければならない。手で除去をするとあっという間に年が暮れてしまうので、ここでインド式の秘密兵器が登場する。四辺を木切れで作った枠の中に網が掛けられている。それは木枠の四隅をかろうじて錆びた釘で止めてあるので、倒れるときっと簡単に壊れる。ここではそれで十分なのだ。そこらへんに落ちているものを拾ってきてちょちょいと作ればそれで完成。お金はかからないし、山を越えてまでも店に行き、お金を払って買う必要もない。たとえお金を払って秘密兵器を買ったとしても、兵器はきっと手作りとそう変わらないレベルだ。逆に言えばそこら辺で拾ったものをかき集めてちょちょいと何かを作れば、ここではそれで立派な店先に置ける商品になるのだ。チクタンの仲間が以前、路上で売られている手押し車に積まれた中古の服の山を見て、僕に申し訳なさそうに質問した。
「日本には中古の服なんか売ってないでしょう。」
「まだ使えるのに捨ててしまう文化と、こうしてリサイクルして使えなくなるまで使う文化とではどちらが先端を行ってると思う。決して恥じる事はないよ。」
僕はそんな会話を交わした事を覚えている。


38.チクタン村とランドセル。


チクタン村の晩夏が薫るある朝、水路に沿って忍び足で歩く二つのふわふわとした固まりがある。その一つが家の影から頭を覗かせている。その光る瞳は用心深く左右の様子をうかがい、村の洗濯場の横の石階段を駆け降り、ぴたりと止まるとまた左右を確認する。そして忍び足から駆け足になり、水路の横を駆け抜けてゆく。猫である。昔からチクタン村に住み着いている少々痩せてはい

37.スル谷のダムスナ村とパニカル村。

スル谷の至高の宝石ダムスナ村に到着する。ここは他のスル谷の村々とは違い、太陽に細かく乱反射する錦糸のような川がいくつも流れていて、どことなくザンスカールの匂いをまとった湿原地帯になっている。ヒマラヤの山々に囲まれた谷は徹底的に平らで、その馬や牛たちの楽園は、緑色をしたビロードの絨毯に覆われている。なにかに見られている感覚がしたのでふと見上げると、谷の遥か向こうには真っ白な衣を身にまとい天を貫くようなヌン・クン(7135m・7035m)の勇姿が、眩いばかりの青い空にもたれ掛かっている。右側の富士山より3300mほど高いインド最高峰の山がヌンで、左側の山頂付近が鉄槍のようになっているのがクンだ。このヌン・クンに行くのであればスル谷最深部のパルカチク村から挑むのが良さそうだ。


36.スル谷へのドライブとツァングラ村。

そしてカーチェイスが始まった。僕の隣に座っている男はポンコツのマルチ・スズキを時速80キロまで加速すると、仲間のバンを右側から追い抜いた。そしてスピードを維持したままコーナーに突っ込んでいく。ミッション・ギアには一切触らずフットブレーキを目一杯踏んで減速し、車は大きくかつ不安定にそのお尻を左に滑らし、深いカーブを砂煙を上げながら運良く乗り切ると、再び時速80キロまで加速する。ここは標高4000メートル弱のガードレールもないナミカ・ラ(峠)の下りである。男にとってギアはノッキングしたときにだけ使うものであり、エンジンブレーキというそんなコジャレた機能のことはもちろんまったく知らない。だから危険な時は男は黙ってフットブレーキをベタ踏みすればよいのだと思っている節がある。そして男の運転は決してうまくはない。いやむしろここが日本だとしたら下手糞なドライバーの上位1パーセントに文句なく入る栄誉をもらえるだろう。まぁそんな状態で数十もの峠のコーナーをほとんどは運が味方をしてくれて、それを征服し終えると僕はこわばりながら掴んでいたドアの上部にあるハンドルから手を離した。もし男があの有名な豆腐屋なら、豆腐が顧客に届いたときにはそれはきっとヨーグルトになっているはずだ。

チクタン村の仲間と今日はスル谷のパニカル方面へピクニックに行く日である。そして良く晴れた良い日だ。僕たちを乗せた車4台はカーチェイスもほどほどにカルギルの街に着くと、キャンプのためのいろいろな物資を調達し、そしてスル谷へ向かった。スル谷の日に輝いている清流沿いを車は走らせる。途中昼食はサンクーの木々で囲まれた芝生の上でカレーを料理してみんなで食べる。先ほどまで後部の座席で鳴いていた鶏たちのうちの一羽が、僕の食べるカレーの中に良く煮込まれたむね肉となって浮いていた。僕たちは昼食を終えるとさっそく出発する。


35.チクタン村の小麦の収穫と冬のラダックの話。

7月下旬から8月中旬にかけてのチクタン村は、小麦の収穫のシーズン真っ只中にある。黄金色に実り風に揺れる麦の穂たちは、村人の手によって刈り取られ、麦畑の隅に集められ、後は脱穀を待つばかりだ。そんなに古くない昔、殻竿などの脱穀器具で脱穀をしていたが、ラダックの殆どの場所では現在、エンジンを搭載した脱穀機で脱穀をしている。

ある日のとても早い朝、家のおかみさんは、軽快なリズムを奏でるパン職人のように、団子状に練った小麦粉を右手から左手、左手から右手とこぎみ良く受け渡してゆき、一枚の平たい円形状のパンを作ると、タップと呼ばれる暖炉に牛糞と薪をくべ、その頭にパンを次々と載せ、それらをこんがりと焼き上げてゆく。そんな朝にトラクターに牽引された大型の脱穀機が、日干し土煉瓦で作られた壁の一角を壊しながら、小麦の刈り取りが終わったばかりの麦畑に入ってきた。トラクターは脱穀場を確保すると、しっかりと脱穀機の足場を固めて、エンジンを回す。
「ブルン・ブル・ブル・バ・バリ・バリ・バリ・・・」
ひきつった鶏の朝の鳴き声は、たちまち脱穀機の回る音にかき消される。この日ばかりは家族総出で子供たちも学校の休みをもらって家の作業に動員される。さきほど焼き上げたばかりのタキと呼ばれるパンの山は、お茶の時間や昼食時に青空の下で家族とともに食べるのだ。


34.チクタン・エリアのILP(インナー・ライン・パーミット)の話。

「ツーリスト・エージェンシーで必要な書類を揃えてからまた来て。」

上司が居ないのをいいことに、肩に携帯電話を挟んで恋人と会話をしてる感じの、なんだかとても投げやりに仕事をしているような、そして何も分かってなさそうな、カルギル・ディストリク・オフィスのスタッフからこんな答えが戻ってきた。僕は今チクタン・エリアのインナー・ライン・パーミットを再び取るためにカルギルに来ている。という訳で今からカルギルのバザール内にあるツーリスト・エ

2014年8月8日金曜日

33.新聞のコラムと世界の悲劇について。

ある朝の喧騒の中にあるアパートメントの一室で、床に数日前の新聞を敷いて、熱々のミルクティーと炙りをいれたカシミールパンをちぎりなら食べていると、ある記事が目にと飛び込んできた。この新聞はGreater Kashimirという名のスリナガルでも有名な地方紙で、日付は八月二日付けの中ほどのページに掲載されていたあるコラムが僕の目を惹いた。

『ガザのパレスチナの人々のために協力してください。

2014年8月5日火曜日

32.アパートメント。

スリナガルのラルチョークと呼ばれるメンバザールの喧騒から逃れ、西に少しだけ歩くとカシミールの古きジェラム川が悠々と流れている。その川に沿って歩くいてゆくと、道沿いには、アイスクリーム売りの屋台、果物売りの屋台、串焼き売りの屋台。搾りたてのジュース売りの屋台。甘味処の屋台などいろいろな屋台が並ぶ。僕は昨日、生ぬるく白いそうめんのような麺と少しとろりとしたアイスクリームが入っている容器に、不思議な汁を手桶からざばっとかけたものを食べたのだが、なんてことはない味だったけれど、その後すぐにトイレに駆け込む事となった。

そんなロシアンルーレットのような通りを過ぎると、いつしかジェラム川の支流の川原にある緑色の帽子をかぶった小さなモスクのそばの橋を渡り終えて、数えること二本目の道を右折するとそこにも細い道ながら小さな商店が続いている。その中にある牛乳屋が見える。一つ高くなった古い帳場のようなところに大きな銀色の金属の入れ物がいくつか並べてあり、その中には牛乳やヨーグルトがたっぷりと入っており、それらの手の届くところに頭にちょこんとのせたイスラム帽と長い髭を蓄えた親父が群がる蝿を払いながら座っている。日本の牛乳は紙パックで一リットルサイズのをスーパーマーケットやコンビニなどで手に入れる事ができるが、ここカシミールでは各家々が持ち寄った容器(主に金属の容器)に、親父が銀色の入れ物から柄杓ですくった牛乳やヨーグルトを入れていったり、又は小さなビニール袋に牛乳やヨーグルトを入れて持っていってもらう。そんな通りからふたたび細い道に入ってゆくと、大きな金属の扉が見え、そこをくぐると三階建てのレンガ造りのアパートメントが建っている。


2014年8月3日日曜日

31.空の下のイルファン(後編)。



イルファンとクルスンは月が煌々と照らしている田園風景の中の道を歩いている。虫たちが鳴き合う声だけが聞こえる以外はとても静かな夜だ。二人は途中の大きな木立の下で休む。病院から持ち出して来たお菓子を取り出して二人で分け合う。その時白くて薄汚れている一匹の子犬が用心深げに近づいてきた。
「お前も親なし家なしか。」
そう言うとイルファンはお菓子を分け与えてあげる。子犬は尻尾を振りながら一目散にお菓子にかぶりつく。ささやかな夕食後二人はそこで朝まで眠った。辺りがまだ薄暗い朝靄の中、イルファンは起き上がりクルスンをゆすり起こす。
「朝だ。行こう。」

二人が振り返ると後ろにはあの子犬が尻尾を振って付いてきている。しだいに道からは広大な田園風景が見えなくなってくる。道は徐々に寂しげな山に中に入りつつあるも、小さな村はその途中いたるところにあり、人々が山中でも生活しているのが分かった。そしてイルファンが右手を見ると谷底に山から流れてくる清流が木々の間からちらと見えた。
「泳ごう。」
イルファンがそういうと二人は谷を下り降り、その冷たい川で水浴びをし始めた。子犬も二人の周りで遊んでいる。一ヶ月以上もまともに体を洗っていないのでとても気持ちが良さげだ。服を全て川で洗うとそれらを木の枝に掛け乾かす。イルファンとクルスンは服が乾くまで木陰で眠ったり、再び水に入ったりして過ごす。子犬も遊び疲れて木陰で眠っている。昼前に服も渇いたので、二人は子犬と共に出発する。


30.空の下のイルファン(前編)。

スリナガルは日曜日にはほとんどの店が閉まるのだが、しかしメインストリートでは、毎週大規模なフリーマーケットが開催される。生活に必要な物は大体出品されているが、中でも衣類が多く、そのほとんどは中古だ。それはパキスタン製だったり、中国製だったり、中東諸国からの物であったりする。そして各ブースを多くの人たちが取り巻き、商品を手にとって品定めをしている。

その人混みの中に混じって歩いている一人の少年が見える。彼の年は十歳ほどで、服は何日も洗っていないようで少々汚く、長らく櫛を通したあともない髪は所々ぴょんと跳ね上がっているところに小さなハンチングを被っている。そんな彼は口笛を吹きながら人だかりの出来ているブースに近づくと、一人のナップサックを背負っている青年に背後から近づく。人々が行き交う揺れに合わせても、彼は青年のナップサックに手を振れつつあたりを入れ、小型のナイフでサクッとそこに切れ込みを入れるのと同時に、すでに彼の手の中には青年のサイフが収まっている。そして仕事が終わると風のように人混みの中に消えてゆく。

ジェラム川の小さな支流のある川辺は葦で覆われており、そこに数多くの掘っ立て小屋が並んでいる。壊れかけた小さな木製の橋の下に壊れかけた小さな木製の掘っ立て小屋が建っている。ジェラム川を真っ赤に染める夕暮れ時、あのスリの少年がその壊れかけた小屋に戻ると、彼の妹が待っていた。
「夕食はアイスクリームとパンに串焼きの肉だ。」
妹はアイスクリームに飛び付くと言う。
「イルファン、シュクリア(ありがとう)、おいしそうなアイスクリームと肉。」
「クルスン、今日は意外な収入が入ったので特別だ。」
オイルランプの回りに集まる虫たちを手で払いのけながら串焼きにかぶりつくとイルファンはそう言った。夕食後、土くれにシートを敷いただけの寝床に入ると二人は眠る。



2014年7月24日木曜日

2014年7月21日月曜日

28.スリナガルにて。

僕はある用事でスリナガルに来ている。ついでなのでこのスリナガルについて少し語ろうかと思う。スリナガルはインドがイギリスの植民地だった頃より、イギリス人たちの避暑地としてその名を轟かせており、今でもカシミーリの間ではインドの中の天国と呼ぶ者は多い。1947年にインドがイギリスから独立を勝ち取った後も、1980年代までは諸外国からの観光客が数多く、避暑地としてのこの地を訪れていて、東洋のスイスと呼ばれていたのはあまりにも有名な話だ。1990年代に入るとカシミールの分離独立運動が活発化してきて、そこにパキスタンから独立支持派の侵入などが相次ぐと、スリナガルの治安は悪化していき、外国からの観光客は当然激減してゆく。そのような状態が2000年代の初頭まで続くと、その最中インド・パキスタンとの紛争もあり、今まで観光業に頼っていたスリナガルの経済も悪化の一歩を辿ってゆく。自然とカシミールの伝統的文化への回帰が始まり、そこでカシミア、パシミナ、サフラン、カシミール絨毯、カシミール家具、その他のカシミールの工芸品などが見直されるようになる。そして2010年代になると観光客が徐々に戻ってきて、地場産業も活性化しつつあるが、いまだ経済は1980年代黄金期の水準には至っていない。しかしながら近年スリナガルでは、散発的なストライキは見られるものの、それらは大規模な暴動には発展しておらず、そんな意味では治安状態も安定してきていると言える。


27.ヘミス・フェスティバルとゴツァン・ゴンパ。

また僕はダンマ・ハウスに滞在しているわけだが、この七月の初旬はチョグラムサルでのダライ・ラマによるカラーチャクラ・ティーチングがあるので、ダンマ・ハウスは外国人観光客と外国籍のお坊さんとであふれていた。そこで一番親しくなったのは、イスラエル人のロイで、彼は壊れやすく繊細な心の持ち主のとても優しい男なので、かの国では生き難いのではないかと心配になったりする。よく彼がダンマ・ハウスのテラスに座り、ギターを抱え、ボサノバを爪弾いている姿を良く見かけた。それはアントニオ・カルロス・ジョビンだったり、ジルベルト・ジルだったりした。二番目に親しくなったのは、日本人カメラマンの方で名前は失念したので、カメラマンさんとお呼びすることにする。彼はレーでタイのお坊さんからこのダンマ・ハウスの事を聞き、また日本では僕のブログを通してダンマ・ハウスの事を知っていたので、ここにお世話になりに来たと言う。もちろんダンマ・ハウスのスタッフ一同は大歓迎だ。そして僕は彼から前項でも書いたスクルブチャン村の五体倒置の話を聞き、涙が出るほど感動したと言っていたのがとても印象的だった。

ダライ・ラマのティーチングを数日聞いた後、ヘミス・フェスティバルの行きの話が出たので、それに参加することにした。だから僕とロイとカメラマンさんはワンボックスのタクシーに揺られ、インダス川沿いを、ヘミスに向かい走っている。レー・マナリ・ハイウェイの左に向かうとパンゴン・ツォ、右に向かうとマナリへ行くところにある分岐の村より道を外れて、インダス川を渡りヘミスに向かう。ヘミスへ向かうなだらかな高原は千畳敷の丘陵となっていて、そこからインダス川対岸のヒマラヤの山々が良く見える。


26.スクルブチャン・ゴンパ。

アチナタン村出身のダンマ・フレンドの計らいで、僕はスクルブチャン・ゴンパに行くことになった。オンボロバスはレーの街を出発するとレー・スリナガル・ハイウェイをひたすら走る。途中の分岐点でハイウェイは橋を渡るとラマユル方面へ、橋を渡らずにインダス川沿いに進むとダー・ハヌー方面に出る。バスは橋を渡らずにダー・ハヌー方面へ行く途中にあるスクルブチャン・ゴンパに向かう。左側にインダス川を見ながら徐々に標高を下げていく。インダス川沿いの狭い土地の緑に覆われている場所はすべて村である。ドンカルからスクルブチャン、アチナタン、サンジャク、ダー・ハヌー、ガルクンなどのこのエリアは、あと一月半もすれば果汁をたっぷり含んだオレンジ色の実で木々は被われ、村の中は熟したアンズの甘い香りに包まれる。そうなると晩夏と初秋はアンズ狩りの季節になる。今の時期、今年はどこの村にアンズ狩りに行こうかとワクワクしているラダッキたちがたくさんいるし、僕もその一人だ。

25.ザンスカール・パドゥムでのダライ・ラマによるティーチングとその他のエピソード。

開門された朝のポタン・ゴンパには、すでにたくさんの人が集まっていた。外国人用のスペースには昨日よりも多い50人ほどが来ており、その中には日本人が4人と、高い占有率を占めていた。そして今度新たに知り合いになった日本人は、しんのすけ君といい、明治大学を一年休学して、沢木耕太郎の深夜特急さながらのルートをたどり、日本からポルトガルまでを陸路での走破の途中だという事だ。もちろん彼のバックパックの中にはその深夜特急が全巻入っている。

24.ザンスカール・パドゥムでのダライ・ラマのティーチング一日目。

さて朝の五時にもぞもぞと起き出すと、パドゥムのアパートの部屋の同居人たちももぞもぞし始める。その部屋は平時ならアクショー村から出てきて学校に通う子供たちの住まいになっているのだが、今日ははれてダライ・ラマのティーチングということもあり、アクショー村からの村人が簡易宿としてこの狭い部屋を使っている。毎日夕刻に戻ると違う顔ぶれがいて、お互い毎日が新しい仲間なので、これもまた楽しいのである。外の薄闇の中で顔を洗い、歯を磨き、体を濡れタオルで拭くと、いつものミルクティにラダックパンのタキを頂く。


23.ザンスカールのドルジェゾン・ゴンパとパドゥムの王宮。

谷を挟んで東側がカルシャ・ゴンパ、西側がドルジェゾン・ゴンパになり、このドルジェゾン・ゴンパというのは、ナン・ゴンパ(尼僧のゴンパ)のことで、僕たちはそこに向かう。カルシャ・ゴンパの裏手に回り込み、西へ続く小道を少し入っていくと、すぐに谷が見えてくる。谷はザンスカールでは中規模の大きさで、かといって浅い訳ではなく、そこにはヒマラヤの山から運ばれてきた清流が横たわっている。対岸のドルジェゾン・ゴンパは山の中腹にあり、そこに向かって山のすそのからつづら折りの道が続いている。僕たちはまずカルシャ・ゴンパ側の山から谷へ降りなければならない。こちら側から谷に続く道もつづら折りで、道幅はとても狭く、足を滑らすといとも簡単に渓谷と仲良くなれそうだ。そんな事にはならないように慎重に僕らは降りてゆく。僕らが降りると谷に待っていたのは陽の光がきらきらと輝き反射する清流で、それに触れるとひんやりと冷たく、水辺はとても澄んでいて、中にはヒマラヤの山々から運ばれてきた小石が横たわっている。その石をどけると沢蟹が数匹飛び出してきそうなそんな気配もする。

22.ザンスカールのカルシャ・ゴンパ。

僕とスナフキンさんとタンチョス僧侶は車道を歩いている。道はだだっ広いパドゥムの平原を横切って遥か彼方の対岸のカルシャ・ゴンパへと続いている。もちろんこの平原の上に対角線などというものがあるとすれば、その先っちょのパドゥムの町から反対側の先っちょのカルシャ・ゴンパまでは歩いても歩いても今日中にたどり着くのはきっと難しい。しかし僕たちは無言で歩いている。いい風が吹いている。どうにかなりそうなそんな予感はする。対角線の半分近くまできただろうか、遥か後ろの方の車道上に巻き上げられた砂ぼこりが見えてきた。その30分後一台の車が近づいて来ているのがはっきりと確認できた。車は横に停まると僕たちを拾って再び動き出した。車が進むにつれて面前のカルシャ・ゴンパの姿が明らかになってきた。そのゴンパ群はヒマラヤの山の岩肌の部分に無数にフジツボのように張り付いており、まるで遥か昔のここが海底だったころより、このゴンパたちはここにいるようで、山あいに突如現れた竜宮城のような感じがするのである。カルシャ側と僕らのいるこちら側との間には大河が横たわっており、そこに架かっている橋を渡ると対岸に出る。対岸に出るとカルシャの村に車を走らせる。






カルシャ村の入り口で車を降りると僕たちはカルシャ・ゴンパまで歩く。カルシャ村の中の道はなだらかな上り坂になってはいるものの、ゴンパまでが見た目より遥かに遠いので、ほどほどに疲れる。ゴンパのほうから流れてくる清流沿いの右岸と左岸に家々は建っており、とても情緒のある村並になっていて、もしもここのいたるところから湯気が出ていれば、そのままザンスカールのひなびた出で湯の里、龍神温泉で通用しそうである。またこのずっと先のザングラ村ではいい湯が出ていて、温泉地になっているという話を聞く。




カルシャ・ゴンパの入り口のポイントにあるマニ車までたどり着き、その横の売店の前で小休止をする。ここまで来るとほぼカルシャ・ゴンパの全貌は明らかになってくる。ザンスカールで一番大きなこのゴンパ群は、大きく二層に分かれており、岩肌にへばりつくフジツボたちの下の部分は僧侶たちの居住区であり、フジツボたちの上の部分がゴンパ群である。そして岩肌の麓から千畳敷がなだらかに大河まで続いており、その丘陵地にカルシャ村の家々が立ち並び、ゴンパ群の方から流れ来る清流沿いに、その門前町のような美しい村並を作っているのだ。




僕たちはそのゴンパを征服すべくフジツボの間に作られている参道を登ってゆく。参道は建物の間を縫うようにつづら折り状に作られていて、つづら道の行き止まりがゴンパになっている。ゴンパからザンスカール・パドゥムの平原が一望でき、遥か向こうに見える町はパドゥムの町である。高い位置からパドゥムを見下ろすと、やはりそれは言うまでもなく広大な大地で、ここがヒマラヤの山の中ということを忘れてしまう。ここは中央アジアの原野で、モンゴルの馬族が砂煙をあげて草原を駆けていそうなそんな原野である。見えるものは大地と山と空だけである。何も考えなくていいのである。そしてあなたは耳を澄ませ、ただ感じるだけでいい。鳥が滑空しながら響かせる鳴き声、吹き上げの風の音、そんな風の中のヒマラヤの香草の微かに薫る匂い、雲の間から射す陽が大地と戯れているさま、今、感じているものがこの世界のすべてで、それ以上のものはなく、またそれ以下のものもない。世界はあなたを作り、あなたもこの世界の一部を作っている。あなたはいるのではなく、ただあるだけなのだ。




ソローやロンドンなどの影響をもろに受けている僕は、実際は宗教というものから一番遠い位置にいるのだと自覚をしているが、ただ知らないものへの探求心はとても強く、結局のところ様々な宗教ととても深い関係になっている。今この瞬間も僕はイスラム教スンニ派のモスクから聞こえてくるアザーンの音に揺られながらスリナガルの下町よりザンスカールのゴンパの事を書いており、そうすることによって仏教をひとつ離れた位置から見られるようになるような気がするのである。

さてカルシャ・ゴンパである。本堂はやっこ豆腐のような形をしておりその白い肌と赤い窓枠はラダックの典型的なそれだ。本堂に入ると美しい壁画が目に飛び込んでくる。赤系統の色で統一された色味にはところどころ色が薄くなったり、剥げ落ちている場所や、そのキャンパス自身にも大きなひびが入っているところから古い壁画だということが想像できる。その壁画の中心に仏陀が座っており、その回りにムーミンにでてくるにょろにょろのようなものがたくさん描かれているのが見え、目を凝らしてよく見てみるとそのにょろにょろの中に様々な形をした仏が描かれていた。その本堂を後にしてさらに登ってゆくと、右側が白いろ、左側が赤色の変わった色彩の建物にでた。その半白半赤の建物のそばに小さな古いゴンパがあり、頼りなさそうな支柱や縦横にがたがたに歪んだたてつけから、それはこのカルシャ・ゴンパで一番古い建物のように見える。その中は何度も修復された跡があり、壁画も近年に上塗りされたもののように見えた。このカルシャ・ゴンパの一番うえの層からの眺めもまた抜群にいい。このカルシャ・ゴンパは下の層から上の層まで距離があるので、パドゥムの平原を見下ろすとき、まるで天に昇るエレベーターに乗りながら移動しているようで、景色が徐々に鳥の視目線になり、自分自身が空に舞っているのと変わらなくなる。






僕たちは次にお坊さんの部屋にお邪魔になる。建物がとても古いので、部屋への入り口はとても狭く、その小さな洞窟にでも入るよう身を屈めて入ってゆく。この部屋は岩肌に無数に建つフジツボのひとつであり、しかしながらその小さな部屋とは裏腹に窓からの景色はとても広く、眼下にはカルシャ村の実りを待つ畑が広がっており、その向こうはパドゥムの原野である。いつも過酷な季節をまたぐ修行僧は景色の良い一等地にいる。それは厳しい自然のなかで精神の修行の場を選ぶ時、とても厳しい場所こそ一番美しい場所だという事を先人たちはみな知っていたのではないだろうかと思ってみたりする。



僕たちはこのカルシャ・ゴンパを後にして、谷の向こうのドルジェゾン・ゴンパに行くこととする。











21.ザンスカールのパドゥム。

僕とタンチョス僧侶はパドゥムに向かう。途中のトゥングリ・ゴンパ(ナンゴンパ)のある村を抜けると、とても広い平原が目の前に現れる。どうやらパドゥムに入ったようだ。その平原の広さは尋常でなく、ザンスカール自体はとても広い谷が多いのだが、それでもヒマラヤの山々に囲まれたこのラダックでは毛色の違う土地の形状をしている。とても高い場所にある原っぱなのに、目立った凹凸はなくとても平たく広い。言ってみれば山々の間の宇宙のよう広い空間に緑のペルシャじゅうたんを敷き詰めたようなそんなイメージがあり、そんなじゅうたんで出来ているパドゥム盆地は風に乗ってどこかに飛んでいけそうな勢いでもある。そんな事を考えているうちに、僕らはパドゥムのバザールに到着した。バザールには百件近くもの商店があるが、その七、八割の店は閉まっている。ダライ・ラマのティーチングの直前で、しかも内外からの観光客がなだれ込んできている状況でこれなのだから、平時は九割以上の商店が閉まっているだろうなと想像がつく。僕がバザールのT字路付近で佇んでいると途中で別れたスナフキンさんが道を横切っているところに遭遇する。僕はスナフキンさんを捕まえると、今日の予定はお互い未定ということだったので、僕とタンチョス僧侶とスナフキンさんとの三人でパドゥムの裏山にあるスタクリモ・ゴンパに行く事にした。

トゥングリ・ゴンパ

2014年7月16日水曜日

20.ザンスカールのゾンクル・ゴンパとスキャガン・ゴンパ。

僕とノルブ兄はゾンクル・ゴンパのあるトクタ村まで、トラックの荷台に揺られながら走っている。この時点で肝心のノルブ本人から連絡があり、チリン村からストクまでのトレッキング・ガイドの仕事が入ってしまい、今回はザンスカールまで来れないということだ。僕は少し頼りないがお兄さんと行動を共にすることとなった。いつしかトクタ村に到着し、僕らはトラックを降り、そのあたりを一望してみる。ほんの少し丸みを帯びた大地に高山植物が群生しており、そのところどころから白い岩が顔を覗かせる様は、スイス・アルプスを連想させとても美しい。小さなお坊さんたちは僕らの先を歩いており、またノルブ兄はトラックの揺れで酔いがさらにまわっているようで、その足取りはかなり危なっかしいが、山を熟知しているので、酔拳の達人のようにそう簡単には転びそうもない。川の対岸に見える村も広い千畳敷の大地に広がり、ビー玉を置くところころと転がりそうな形状は、手で撫で上げるととても気持ち良さそうだ。また高地の爽やかな緑と紺碧の空には小さなお坊さんたちの深紅の衣がよく映えとても眩しかった。

19.ザンスカールのアクショー村。

とある村の朝は深い靄に包まれていた。僕たちは再びバスに乗り込むと、さっそく出発した。バスは荒涼とした不毛をひたすら進む。右手に大きな氷河が見えてくる。その氷河の名前はドラン・ドゥルン氷河。ザンスカールではもちろん一番大きな氷河だし、ラダックでも一番大きな氷河とされている。山あいにそれは大きくうねりながらへばりついているようで、氷河自体の重みでそれは少しず生きてうごいている。氷河を通りすぎると、小さな湖がいくつも見え、とても標高が高いのでそこに横たわる水はどれも純水に見える。この天空の山道をしばらく進むと突然深くその大地は沈み込み、その縁をつづら折りになりながら道は下りてゆく。そのつづら折りおりの道の途中に一台の車が転落しているのが見えた。中の人たちは無事だったのか、それとも車が故障で動かなくなり道をふさいでしまったので、あえて落としたのかは定かではない。ラダックではこのような転落事故はしばしばある。僕もカルドン・ラとワカ・リバー、そして今回のを含めると転落事故の目撃は三回目になる。道の端はゆるくなっていて、脆い場所が多いのでガードレールを取り付けるのも難しいところが多い。道路のインフラが脆すぎるので、いつかは抜本的な対策をしなければならないと思う。

2014年7月15日火曜日

18.ザンスカールへ。

今、僕は公営バスに揺られてザンスカールへ向かっている。ダンマフレンドのノルブの計らいでザンスカール行きが実現したのだ。レーのオールド・バス・スタンドで750ルピーを払い、バッグパック類は屋根に載せてこのオンボロバスに乗り込んだのだ。朝五時半に出発したバスの右前の座席には日本人らしき旅行者も乗り込んでいる。今回のザンスカール行きの最大の目的は、カラーチャクラの前夜祭としてパドゥムで行われることとなったダライ・ラマによるティーチングに参加するためだ。僕の横にはノルブのお兄さんがエスコートとして座っている。ノルブは途中から僕らと合流予定だ。途中カルツェの村で休憩を取ると、バスは再び出発をした。カルツェのチェック・ポストにはお馴染みの警官が常駐していて、僕がパドゥム行きを告げると大変喜んでくれた。

17.ザンスカール・リバー・ラフティング。

ダンマハウス・サマーキャンプも終盤に入り、ある朝再び生徒たちは教室の外に呼び出される。そして生徒たちはそこで今からザンスカール・リバー・ラフティングに行くことをヴィヴェックから告げられる。振り向くとあのオンボロバスがすでに停まっており、生徒たちは身支度を整えると早速そのバスに乗り込む。バスはストクを出発するとインダス川沿いをひたすら北上する。空港を通りすぎると左手にスピトク・ゴンパが見えてくる。このゴンパはこのレー・スリナガル・ハイウェイから眺めるよりも、インダス川対岸からの眺めの方がティクセ・ゴンパを彷彿させる岩波の間にゴンパ群が見えて圧倒的に美しい。しかし僕らのバスはスピトク・ゴンパをレー・スリナガル・ハイウェイより眺めみながら通りすぎる。


16.チェムデイ・ゴンパとスタクナ・ゴンパ。

ダンマハウス・サマーキャンプも中盤に入り、タイトに組み込まれたプログラムに従って日々は過ぎていくが、その斬新な内容は決して退屈するものではなく、日本では経験することがまずないものばかりなので、面白いし、興味深いし、楽しいし、嬉しいし、気持ちはいいし、大変ためになる事ばかりの毎日が過ぎてゆく。そんなある日の朝、ダンマハウスに一台のオンボロバスが乗り込んできた。生徒たちはバスに乗るように促され、その中で今からゴンパを巡るスタディ・ツアーに行く事を宣告される。そうなれば学生たちはバスの中で歌えや踊れやのどんちゃん騒ぎだ。バスはひたすらレー・マナリ・ハイウェイを南下している。夏はラダッキたちのピクニック・シーズンで様々な学校の学生たちはバスをチャーターしてラダックのいろいろな美しい場所へ向かう。バスが何台も縦に並び学生たちを乗せ走っているのを光景をあなたもどかで見ることができる。そんな時はちょいとバスの中を覗いてみるがいい。きっと全てのバスの中は学生たちにより歌えや踊れやの大騒ぎ状態になっているはずだ。

オンボロバスはあるY字路にたどり着く。右に向かえばマナリ方面、左に向かえばパンゴン・ツォ(パンゴン・レイク)方面だ。僕たちのオンボロバスは左へ向かった。坂道をえっちらよっちらとバスは登っていく。先ほどのY字路から10分ほど進んでいくと、右手の岩山の斜面に白亜のゴンパ群がへばりついているのが見えてくる。青い空はそれらのゴンパをよりいっそう引き立たせる。チェムデイ・ゴンパ。レー・マナリ・ハイウェイからもちらと見ることができる、このなんとなくむっくりとカタツムリの風貌を思わせるゴンパに、バスはくるりと回り込んで徐々に近づいてゆく。道の行き止まりに止まったバスから吐き出された学生たちは徒歩でゴンパに向かう。

15.ストク・ベースキャンプ・トレイル2。

山小屋を出発して再び僕たちは歩き始める。峠と谷をくりかえし奏でるこのトレイル・コースは止むことのない交響曲のようにも感じてくる。とある峠を越えると面前の谷から冷気が吹き込み、真っ白な雪が川沿いを覆っている。コースは谷に降りていくように続いており、いつしかそのコースも雪に飲み込まれていく。雪上を歩くと雪はさくさくと音をたてつつ靴はその重みで沈んでいき、時おり雪上に現れる亀裂は浅いクレパスである。雪面の端は薄くて脆く踏み抜くと川面に転落するかもしれない。この辺りは天候が崩れると何月になっても降雪がある。谷は山に隠れるように深い影を作っていて、まるでその影にとじ込まれるように万年雪が静かに横たわる。雪面の端のつららは折ると水を豊富に含んでいて、乾いた口にその先を向けると、尖った先っぽから閉じ込められていたヒマラヤの源流がほとばしるようにのどに落ちてくる。そのきらきらとした水は一度疲れた体に染み込むと、後でその体はきっと輝きを取り戻す。口元にこぼれ落ちた水をぐいと手の甲でぬぐい取ると、僕は再び次の一歩をヒマラヤの谷に刻み込むために歩き始めた。

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