2012年6月29日金曜日

10.ステファニー

「レ・テンプス・デス・ジタンはいい映画よ。一度見てみたらいいわ。監督はトニー・ガプリーだったっけ、ルストリカだったっけ、ごめんなさい、思い出せないわ。それともう一つトニー・ガトリフのラチョ・ドロム。これもすごくいい映画でヨーロッパから中東、そしてインドにいたるまでの各国々のジプシーたちの生き様を追ったドキュメンタリータッチの映画ね。それと中東映画でたしかイランの映画だったと思うけど、"ノウワン・ノウズ・アバウト・ペルシアン・キャット"もすごくいい映画だから是非見てみて、イランにおける青年たちの音楽活動事情に、躍動する若さと鮮やかな色彩を絡ませて、イランという内的偏見をみごとに打ち砕こうとしている映画ね。」

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2012年6月28日木曜日

9.ホテル・エバーグリーン。

カルギルのメインバザールにあるオールド・タクシー・スタンドの右脇の道を進んでいくと、その右手には2件ほど茶屋が並んでいて、良く言えばオープン・テラス、見たままで言えば砕けたコンクリートがただ地面を隠しているだけの不安定な一段高くなっている場所で、日中から陽に灼けた男たちが、目をしばたかせつつ、バター茶を飲みながら管を巻いている。たまにその中には頭を布で巻いたイスラムの指導者や警官(交通ポリス)、やる事が無く長い一日をどうやってうっちゃろうか思惑している公務員、授業の空き時間に遊びに来た学校の先生などが毎日メンバーをシャフルしながらも集まってくる。

そこの前を通り過ぎ、右側の石造りの建物の暗い一角にある駄菓子屋も通り過ぎると突き当たりには立派な鉄製の門が見え、その向こう側には巨大で立派なホテルがあるが、その門の左横を見ると何やら匂いたってくるような細い道があり、ますます探索心が揺さぶられ、そこに入っていく人はきっと変わり者である。そして僕はその道を入っていく。数歩進むとすぐに歪んだ木枠に青色か群青色か見分けがつかぬ扉が付いているところがるので、それをくぐり抜けると、とある建物の敷地に入る。目の前には視界を遮るように巨木が立ちはだかっていて、朝方にはその周りを大勢の期間労働者たちが、陽に灼けて筋張った体を丸めてしゃがみ手洟を飛ばしつつ、端が欠けたプレートにご飯をのせ、その上に野菜のカレー煮の汁をかけて、はふはふといいながら黒く細い指を器用に使い頬張る。手でご飯を食べる方法は僕が知る限りでは二通りあるのだが、一つ目は親指以外の四本指でご飯をすくい、ご飯は指の腹に乗せ、口先にそれを持っていき、親指で指の腹に乗ったご飯を口の中に押し出して食べる方法、もう一つはご飯を鷲掴みにして、口を大きく開けて、シンプルにストレートにただ食欲と胃袋に任せるままに口の中に入れる。鷲掴みにしては口に入れ頬張り、頬張っては鷲掴みにする。僕はどちらの作法も好きで、良くやるのだが、両方とも最後は皿にへばりついたご飯や汁を指で奇麗に残さず拭き取り、次にその手の残りかすを舌を使い指一本一本を上品に舐め上げる。最後は野菜を買った時に巻いて来た新聞紙やら、ボロ布やらで指を拭いて終了だ。しかし場所が違えば作法も変わるようで、以前スリランカの宿坊で指を一本一本舐め上げていったら叱られた憶えがある。

そしていよいよその建物の全容が近くに見えてくる。石と土とセメントで出来たその建物はホテル・エバーグリーンと言う名で、周りの立派なホテルたちに囲まれた閑静でかつ淀んだ一角にある、いつも期間労働者や外国からのバックパッカーたちで賑わっている木賃宿だ。バックパッカーたちは安宿を求めてここにやって来るが、リピーターが多く、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、スペイン、オーストラリア、カナダ、デンマーク、日本、タイ、韓国などまるで世界の民族博物館みたいだ。ここからさらにスル谷さらにはザンスカールへのトレッキングへいそしむ人たちで溢れている。さてさっそくその建物の一階部分を歩いてみる。建物の入り口には扉はなく一本の廊下が奥まで続いていて、右に左に沢山の部屋が固まっているので覗いてみると、どの部屋も狭く、地面にボロ布を置いただけの場所にたくさんの期間労働者やその家族たちが寝食をともにしている。部屋の角には、携帯コンロが置かれ部屋の中でも煮炊きををするのだが、その壁はすでにすすけて真っ黒である。しかしかれらはいつも陽気で、その家族の子供たちも暇さえあれば走り回っていて、朝食や昼食、夕食の時間になると、いつも歌声が聞こえてくるので、こちらまで心楽しくなってくる。

一階の廊下の突き当たりまで行くと、二階に続く階段があるので、古い板で出来たその階段を踏み抜かないように注意深く登る。二回部分は一階とは様相が変わり、視界が明るくなる。柔らかい色に塗られた壁は、時折吹き抜ける優しい風と同化する。一階は人間が生きるための鬱蒼たる陰鬱な空間だったが、二階は明るく涼しく優しく不思議な名状しがたい空間となる。しかしここで安心してはダメだ。決して壁には触れないようにと忠告しておこう。この壁の明るくて素敵な色は、もしかしたら数分前に宿の主人が気まぐれに塗り替えたばかりのペンキの色なのかもしれない。あきらかに昨日の壁の色とは違う。試しに壁にもたれてみる。ほら思った通りだ。僕の右半身が薄い緑色になってしまった。僕はペンキで汚れた服を水をはったバケツに入れてから、部屋に入る。

僕の部屋は二階にある。このホテル・エバーグリーンの主人の息子はカルギル・トゥデイ・ニュースのメンバーであり、僕はここに特別に安く住まわして頂いているというわけだ。部屋中も廊下と同じで薄い緑色で塗られていてカーテンを開けると柔らかい日差しがゆらゆら揺れる窓のガラスを抜けて差し込んでくる。天井部分は全て木で出来ており、板張りの天井には七本の桟が右から左へ差し込まれていてそれとクロスするように一本の太い桟が食い込んでいる。窓際にはベッドがあるのだが、そのベッドは古いパイプ・ベッドでそのうえに古いマットレスが置かれ、その上に新しいベッド・カバーが敷かれている。寝心地は意外に良く僕の体にフィットしていて、ここに長く逗留していると、マットレスが人形に窪んでくる。電源ソケットは何故か天井に付いているので、長い長い延長コードを持って来た僕は正解だった。角部屋なので二面は外に向っての窓が付いていて、一面は出入り口の扉が付いていて、残りの面は隣りの部屋と壁で接している。昔はカルギルのゲストハウスやホテルと言えば南京虫が象徴だったが、今ではどんな安宿でもまず南京虫はほとんどでない。ラダックの南京虫は古い家の天井に住み着くので、たまに天井が多くの枝で出来た古い家に泊まる事になったら、ブランケットで頭から足先まで覆って寝る事だ。夜中に人めがけて空中落下してくる南京虫はこれで防げるし、村人もこうして寝る。

この古ホテルの二階の廊下の奥に三階に続いているような、今にも崩れ落ちて来そうな古い木でできた不気味な謎の階段がある。階段の登った突き当たりには古い傾いた扉が付いており、その向こう側はうかがい知れない。宿の主人に聞くとここには決して入らないようにという事だ。僕にとって、ますますもって惹かれる魅力的な空間だ。ある夜中僕はトイレに行くために、部屋を出てその階段の突き当たりの古い扉を凝視している。その扉から微かに光が漏れている。そして微かに子供の鳴き声がする。それは部屋の中で寝起きしているだけでは決して聞き取れない泣き声。部屋の外に出て、階段の突き当たりに気を集中して、耳を澄まさないと聞き取れない声。一人ではない。何人もの子供の泣き声がする。僕はその階段を登る。階段が音をたててギシギシと歪む度に、僕は歩を止めて、息を止める。扉に手をかけてゆっくり開けてみる。薄暗い屋根裏のスペースに少量のベッドとその間に多くの布団が敷かれ、多くの人たちが息を殺しつつひしめいていた。彼らは大きく深い無垢な瞳でこちらに一斉に目を向ける。ネパールからやって来た期間労働者たちが極安の屋根がある場所を求めて、ここに滞在しているようだ。その隅の方で複数の赤ん坊が泣いている。やせっぽっちのお母さんがお乳をそのやせぽっちの赤子たちに与えていた。窓さえ無いこの空間の薄暗い裸電球と埃と立ちこめる人の匂いと潜めて話す低い声と淵の炊事道具そばの黒くすすけた壁と持参した崩れ掛った布団とそこにいる複数の家族たちがいるこの狭い空間に、僕は持つ者と持たざる者のねじれた宿痾の世界を感じ、静かにその扉を閉じた。

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2012年6月27日水曜日

8.スル谷のドライブ。

バルー村よりスル・リバーにそってさらに車で奥に進む事15分、静かな山間の谷にチュトク村と言うなの村がある。村に入り山側の斜面を登って行くと大きな学校のような建物が見えてくる。その建物の周りには子供から青年までが軍服を着て整列をしている。ここはアニュアル・トレイニング・キャンプというところで、通称NTCと呼ばれている。子供たちはここのキャンプに体験トレイニングに来ているのだ。そして今日はカルギル・トゥデイ・ニュースから僕とジェット・リー似のザキールがこのキャンプの取材にやって来た。指導に当たっている先生は本物の現役の軍人たちで、いつもなら緊張と危険と疲労の中にいるのだが、今日の彼らの顔はことごとく開いている。子供たちは彼らの号令で行進したり、向きを変えたり、止まったり、駆け足したり、また行進したりしている。上級生の子供たちは参加回数も多いので、列は整い仲間たちの息はかなり合っているが、年少の子供たちは列はバラバラで息も合っていないようだ。しかし楽しい遠足のような気分でできるこのような体験は、近い将来振り返ってみるときっと有意義な時間になっているだろうと思う。僕とザキールは子供たちの様子を撮影し続けている。カメラを向けるとおどけてしまう子供や、緊張して行進の手足が揃ってしまう子供、カメラを意識しないで堂々たる行進をしている子供など様々だ。最後にみんなで配給されたお菓子を頂く。グランドに置かれている机の上に色とりどりのお菓子が並ぶ。それを順番に子供たちが列をなして皿に取っていく。そしてみんなでお菓子を食べ終えると、集団での記念になる。建物を背に何百人ものざわついていた子供たちが一瞬静止してカメラのシャター音だけがグランドに響くと、またその静けさはすぐにざわめきに変わる。途中でカルギル・トゥデイ・ニュースのリーダーのホセインも合流して、今回のアニュアル・トレイニング・キャンプは終わりを告げた。

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ザキールは先に帰途につき、残った僕とホセインはスル・リバー沿いを車で流す事にした。スル・リバーは遥か彼方のザンスカールからカルギルへ流れ込んで来る。車はチュトク村を出ると徐々に川の上流に向う。スル谷の懐は深く広く、右の山から谷を挟んでの左の山までの距離はかなり長い。谷の奥まではかなり広い視界で見渡せ、遥か彼方にある真っ白な雪の帽子を被ったヒマラヤの山々が、すぐ目の前まで迫って来ているように見える。肥沃な場所に広がるスル谷の村々はこの季節いつでも濃い緑の中にある。2年前にも来た事がある古いマスジドがあるグランタン村を通し過ぎるといよいよスル谷は広くなっていく。そしてすり鉢のような地形が彼方まで続く。空は動かず、山が少しずつ前から迫っては、後ろに抜けていき、雲は流れているのか、車が動いているからそう見えるのか、それさえもわからず、でも景色が少しずつ変わっているのは事実で、村の形も常に変わっていっているようだ。左手に山脈の腹に大きなトンネルを開けて水を通す工事が行われている。チュトク・プロジェクトだ。ヒマラヤの雪帽子に青い空にさんさんと照っている太陽が、山の白い部分をよりいっそう際立たせている。すると山の帽子以外の場所もその照り返しを受けて美しく輝いている。道は相変わらず他のラダック同様、車で掘られたアスファルトの穴に土を入れたり、またはアスファルトの再敷設工事などが行われておらず、酷い状況の場所が数多くあるが、すでにドライバーたちはそんな当たり前の事に気も止めていない様子だ。

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いくつもの山や村を駆け抜け、僕たちはメイン道路から外れてスル・リバーを渡り、進むと午後の風が少しだけ吹き、徐々に森が開けると、小さな小さな村が見えて来た。ティナ村だ。村の淵に止めた車から降りると、やはり一番最初に集まっているのは子供たちで、彼らは少しの興味に飛びついてくるのだ。この村は深い緑に囲まれ、6月の雪を被っている山々にも囲まれ、初夏というよりもやっと春がやって来たというような雰囲気で、静けさの中、村の中を吹く風が荒涼たる気分にさせ、頭の片隅にわずかに冬を感じさせている。スル谷はやっと春が来たばかりなのだ。村の中の細い道を歩いていくと左側に畑が広がり、やはりその向こうにも大きな山が頭に雪を抱えてそびえ立っている。右側には離れの厠が見えて来て、細い道を挟んで反対側に一軒の家が建っている。この家はホセインの友人の家らしく、ドアをそとから軽快にノックする。しばらくしてホセインの友人が中から扉を開く。彼はラッキー・アリという名の人物で大きな体を揺すって歩いてくる。この人物はカルギル・トゥデイ・ニュースに遠い昔に在籍していたと言う事を聞いた。この部屋には昔この人物が撮影したフィルムがたくさん転がっていた。人物がそれを一つづつ手に取り、内容を説明しているその表情はまるで子供に戻ったようだった。人物は夏の6、7、8月にしか家に戻らず、この三ヶ月間は農作業をして過ごすそうだ。スル谷の冬は他のラダックの地域よりも少しだけ長く、人物のように夏の数ヶ月しか戻ってこない人は数多くいるらしい。通された部屋の台所の壁には縦にも横にも銀の食器が並んでおり、口が長く柄が水タバコの器具も冬の埃が被ったままで壁に寄りかかっていた。鶴が月に向って何羽も飛んでいる様子の日本画が、小さな額に入れられて、壁の中央付近に飾られている。しばらくして紅茶とお菓子が出来たので僕たちはそれらを頂いた。数十分も滞在しないうちにラッキー・アリの家を出ると、よりいっそう風が強くなってきたので、僕はジャケットの襟をたて、ジッパーを上まで上げる。6月のこの村はまだ春と冬がせめぎあっているようだ。谷は広いが雪山から吹き降りてくる風に冷やされて、いまだ冷蔵庫の中といったところだ。雲の流れも早くなって来たので、天気が変わる前に僕たちはカルギルへ戻る事にした。

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2012年6月26日火曜日

7.ゴンマ・カルギル。

カルギル・トゥデイ・ニュースの仕事で子供たちの集団検診と政党の講演会の取材を夕方前までになんとかこなしたので、黄昏時にカルギルよりさらに天に近い場所にトレックングに行こうと思った。メインバザールのラルチョーク交差点を山側に登って行き、ガールズ・セカンダリー・スクールを通り越したところの左手の崖に辛うじて作られているような急斜面の階段を登って行くと、カルギル・トゥデイ・ニュースのスタジオがあり、そこからはカルギルの街がとても広い視野で一望できるのだが、階段を登って行かずにスクールの裏手の右側に続いている車道を歩いていく。

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そこを木陰の下を10分程歩いていくと前回来た事があるルンビタン村に出るのだが、今回はこの村を通過してさらに車道を歩いて登って行く。ルンビタン村は谷が鋭角に谷側にも山側にも刻まれている山の腹に広がっている。山側に刻まれている鋭角の形のまま、迂回するように車道が隣の山まで伸びている。先ほどまではこちら側から谷にあるルンビタン村を見ていたのだが、今はあちら側の山の腹からルンビタン村を見下ろしている。まだまだ道は続く気配なので、ますます深く高く登って行く。さらに20分程登ると、山の高いところに次の村の家々が点在している。子供たちが道の真ん中に石を積んでクリケットに興じている。夕方の風に木々が揺れて、この高いところのその間から振り向けば、下の方から見ていた風景とは全く違う視界が広がる。下界に見えるカルギルの街は遥か下方に辛うじて見えるか見えないかというほどに、上手の緑の木々が街を遮っている。その向こうにはスル・リバーが確認でき、橋を渡ってまた向こうに広がる緑の場所がプエン村だ。そしてその村の背中には大きな大きなそして背の高い台地が広がり、そこにつづら折りの車道が微かに見え、その道は登り切った向こう側でバタリク方面とパスキュン方面に分かれ、パスキュン方面からはパスキュン、ロツン、シェルゴル、ムルベキ、ワカ、カングラル、ヘナスク、ラマユルと続き、バタリク方面からはダルチェスク、ガルクン、ダー、ハヌー、アチナタンと続き、双方はカルシで再び出会ってレーへ向うのだ。

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さらに上昇する道を登って行くと20分ほどで、また小さな集落が見えてくる。まさに天空に広がる村だ。車道はこの村で行き止まりになっている。この村の名前はゴンマ・カルギル。ヒマラヤの高いところに咲くゆりの花のような集落だ。ここから見える風景はすでにカルギルというくくりを通り越して、遥か彼方の頑健にして優美であり、深淵と精緻な部分を持ち合わせた心震わすヒマラヤの山々が見事なまでに扇形に広がる。村は小さいが豊富な湧き水が所々に流れており、その周りの畑の小麦が狭いが逞しく育っている。村と畑に流れる水路は急で、透明なその水がどこからともなく流れて来ているので、その水源を探してみたい気持ちになる。山から滲み出した養分たっぷりの水で育まれた畑の淵には、美しい数多くの花々が咲き乱れている。その魔性の蜜を目当てにやって来る蝶たちは、小振りながらもエキゾチックで色も形も多彩だ。ここは小さくても美しいまるで神からの贈り物のような村だ。人の手で作られた家と畑は、自然と見事に調和して、まるで今まで聞いた事の無いような不思議で心地いいメロディを聞いているようなそんな錯覚に陥りそうになる。いやすでに陥ってるはずである。名も無い花のような村を見る時、それが美しければ美しい程、五感は見事に刃先に浮いた水滴を二つに割る事が出来る刃物の如く研ぎすまされ、しかし冴えてはいるけど、どこか優しくゆりかごにも揺られているような、そんな五感を包み込んでいる心が山にゆるりと、気がつけばいつの間にやらとけ入っている。

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家々と畑たちを抜けると、その裏には山から滲み出した自然の水路とそれを囲むように緑の草と時折木々が広がり、その緑の中からポツリポツリと黒く起き上がっているのは自然の岩である。しかししばし凝視してそのあたりを見てみると、中に岩が円形に並べられている場所がある。村人に聞いてみると遥か昔にゴンマ・カルギルには2家族6人が住み着いたのが最初の人たちだったようで、少数ながらもコミュニティはしっかりしていて、その岩で囲われた場所にみんなが集まり、ここで村のリクリエーションや決めごとなどをしていたらしい。そして最初に住み着いた人々の末裔が今もこのゴンマ・カルギルに住んでいるのだ。

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この興味深いエリアを抜けると今度はうってかわってヒマラヤ特有の乾いた茶色い山が続く。山の縁を縫うようにして細い細い道が山の向こうまで続いている。そして今歩いている山の頂上付近を見上げれば、まだ頂きに白い帽子を被っているのが分かる。まだまだこの細い道は徐々に高度を上げていく。どこまで続くのだろうと不安になりながらも歩を進める。人が住んでいる最終地点の村を抜けるとすっかり不毛の山々に包まれる。ここではヒマラヤの腹に付けられた人の足で踏み固められている細く不安定な道だけが人類のただ一つの痕跡なのだ。心細くも今まで何人となく辿って来たこの痕跡を僕も辿っていく。遥か彼方の次の山の腹付近で、人の影がひらひらと動くのが見えた。人がいるのだ。心細さは消え、ただ黙々と歩いていく。ここまで来ると谷は恐ろしく深く、山の頂きは恐ろしく近く感じる。どのくらい歩いたのだろうか。疲労は徐々に蓄積されていく。さやさやと音がするので、その方向に顔を向けると細い水路がきらきらと黄昏の光を受けながら流れているのがわかる。

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そして人の声が聞こえて来たので、その付近へ目をやると、そこには緑の木々がほんの少し固まるようにたっていて、その木々の間を子供たちが飛び跳ねて遊んでいるのが確認できた。そして子供たちの間を抜けていくと山腹の石たちの間より一筋の水が孤独に流れ落ちていた。その水はここで一本の水路になり、ずっと下の方の村々へ流れていくのだ。ここにいる子供たちは先生に引率されて、ここまでやってきたらしい。そして子供たちは湧き水を取り囲んで、持参して来たペットボトルに水を詰めている。ここにわき出す水は大変有名な水で、無病息災の水としてラダック中に知られ渡っており、宗派を問わずいろいろな人々が水を汲みにくる。僕も両手で水をすくう。あたりは暗くなり始め、水面にサフラン色の赤い黄昏が降りて来て、手のひらで水がきらきら揺れている。そしてそれを口もとに持っていき、ぐいっと飲み干す。
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水は口に含むと硬水なのに、舌先に触れた瞬間にとろりと軟水に変わる。そしてその微かに甘いやつは、冷たくきりりと引き締まったかと思うと、次の瞬間柔らかく自身に浸透していく。のど元を通って、胃に落ちたかと思うと、五臓六腑に優しく染み渡っていく。疲れが深ければ深い程、湧き水は作用し、体と心を満たしていく。遥か彼方のヒマラヤの背にもサフラン色の黄昏が降りて来ている。そして優しいこの水はその景色とも作用し合って、ラダックの淡く深い光の中へ自身と心もがゆっくり沁みていく。頂きの雪解け水はヒマラヤに浸透して岩や石や土や砂やそのようなものの間を通りながら長い年月をかけて浄化して、いつしかヒマラヤの腹から滲み出してくる。それはまた人や動物が頂いたり、台地に再び浸透したり、大きな川に流れ落ちたり、いつしか海に辿り着いたりしながら、また水蒸気になり、天の雲となり、雨となり、雪となり、ヒマラヤに降りしきる。どんなに細かくその流るる方法が分岐しても必ず彼らはいつか戻ってくる。それらは人を生かさせ、自然を生かさせ、地球を生かさせる。流転している。輪廻している。

さっきまでいた子供たちはすでに先生とともに下山をしていて、残った僕は黄昏が夜の闇に浸食されつつある時間に下山を開始した。山の端がいよいよ暗くなり、数えられない程の星が瞬き出す頃、足早に流れる雲の間から大きな大きなたまご色の満月が顔を出し始めていた。

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2012年6月25日月曜日

6.アドルガム村とカクシリクシャ村。

空からペンキが降って来た。朝、バザール裏の細い道を歩いていると頭上に缶ごと白いペンキが降って来たのだ。建物の二階部分を古はしごに乗って、白ペンキを塗っていたネパール人が、手を滑らして、ペンキを缶ごと落としてしまい、そこに運悪く僕が通りかかったと言う訳だ。僕は怒る時間も惜しんで、全力で宿に引き返し、バスルームに飛び込んで、服を脱ぎ捨てて、水を何度も何度も浴びて、石けんで体と服を洗った。なんとか奇麗にペンキが落ちたのでほっとした。なにかと日本とかってが違い、何が起こるかわからないスリリングな日々だが、事が起こってからの素早い対処が一番必要だと思った。デリーでひったくりにあったときも躊躇せずに追いかけて行ってカメラを取り返したりした事など、細かい事をあげればきりがないが、対処はできるだけ早い方がいい。

カルギルのメインバザールを出てからスリナガル方面へ続く道を歩く。右手にスル・リバーを見ながら進むと、あっという間に街は途絶え、そこは自然の中の静けさだけになる。川は流れ、木々はざわめき、ヒマラヤの空は低く、雲は漂う。10分程歩くと左の山の腹に小さな村の家々がそこはかとなくあるのが確認できる。崩れ易い山の斜面に石を積んで家の土台を作り、その上に、木枠の中に土レンガ積み上げて土と木でできた屋根をかぶせた、昔ながらの家が多く立ち並ぶ。この地域はアドルガム村と呼ばれている地区でカルギルから出てスリナガルに向う道中で一番始めに出会える村だ。この道は車が時折通り、スリナガルからの車がカルギルへ吸い込まれていく。その村の下手へ僕はどんどん歩いていくと右手の川側に掘建て小屋のような小さな小さな店が見えて来た。周りはすでに村の家々は途絶えていて、店の背には川が、面前には切り立った崖が見え、その上に濃い緑が広がっている。僕はその店で小休止する事にした。店の前に設置してある、少しだけ傾いたベンチに座り、店のおやじに200mlの小さな紙パックに入ったオレンジジュースを注文した。無精髭にイスラム帽を被ったこの男は一年中この自然の中にいて時折止まる車を相手に商売しているのだろうか?冬もここにいるのだろうか?僕はこんな事を考えながら紙パックのジュースをすすってぺちゃんこにした。この周りには美しい自然以外に何も無いようなこの地域もアドルガム村と言うなの地区で、川沿いに長く横たわっている。耳を澄ますと時折通る車と川の音以外何も聞こえてこない。いい時節だと思う。

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小さな休憩も終わり店先を出て少し進むとカルギル・ミュージアム(博物館)の川に立派な鉄橋が架かっている。その鉄橋を渡ると向こう側に見える村に行けそうだが、鉄橋があまり風流でないので、僕はこのまま真っすぐ進む事にした。左の崖の軒先に二羽の鳩が気持ち良さげに寝ている。足下に視線を落とすと靴がペンキで白くなっていた。今朝の白ペンキ事件の時、服だけに気を取られて靴にまで気が回らなかったのだ。まぁいいか。いろいろ歩き回ればいつかは奇麗に落ちるだろう。茶と緑と青と水色と色彩豊かなこのヒマラヤの渓谷をしばらく歩く。凪いでいた風が午後になって少し強くなって来た時、右手対岸にフジツボのようにへばりついている小さな村が見えた。そしてこちら側から向こう岸へ架かる吊り橋も同時に見えて来た。

吊り橋はとても細くて風に揺れ、そして弱かった。僕は注意深く吊り橋を渡り、中程まで来た時、眼下を流れる川を見た。流れは早く、足下からの川の音はよりリアルに足裏から体に伝わる。今、僕はスル・リバーの上に浮いているのだ。鳥の目で川を見ている。僕はいつでもここから飛べそうな気がした。遥か彼方に見えるはずのザンスカールまで。

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吊り橋を渡り終えて美しきその村の懐に入っていく。この村の名前はカクシリクシャ村。村の中心には手作りの水路がさらさらと流れていて、村の女性たちが水路のいたる所で洗濯をしている。ほとりにひっそり立っている木々の間から溢れる午後の陽光が水路をキラキラと輝かせている。その水路の脇には石や土で作られた家々が立ち並び、中には昔より突然移動して来たような古い建物がある。その建物のところどころには時代がある。その建物は近年にたてられた石造りの家々に溶け込んでいる。木々と家々の間から突然子供たちが駆け出してくる。村のいたるところの路地では子供たちの笑い声が絶えない。それを見守るように老人たちが軒先の土で作られた縁に座っている。そしてその目は徹底的に涼しいのだ。そしてその目はここでしか見られないようなラダックの涼しさなのだ。

昔は今とあまり変わらない生活をしていたのだという事が分かるのだ。それは決して時代に取り残されているのではなく、今ここに必要でないものは、シンプルにただないと言うだけなのだ。現代を映し出す鏡のような作用がラダックにはあると思う。その証拠に近年、都会の片隅で疲れ切った多くの旅人がラダックの有なる自然と無なる現代を求めて、ラダックの静かなる悠久の時間に身を委ねにやってくるのだ。空は広く低く徹底的に青く、緑はわずかな土地からの恵みを精一杯吸い取って、濃く深くそして鮮やかに生きている。土の匂いはあらゆるとこまで付いて来て、それは家だったり、野菜だったり、衣服だったり、いつまでも続く土の上の自分の足跡に感じられる。そしてその素敵な村を取り囲んでいるのがあまりにも広くて全てを知覚するのが困難なヒマラヤの山々だ。ヒマラヤの山を完全に人の心に取り込むにはきっと宇宙にからでないと難しいかもしれない。とてつもなく大きく、まだまだ前人未到のエリアも数多くあり、ここにはとても人間だけの概念ではとらえきれない魅力と魔物が住み着いているのだ。そして有史以来それらに取り付かれた人たちが入り込み抜出せなくなり、またはヒマラヤの塵になり、それは今も変わりなく続いているし、これからも続くのであろう。

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2012年6月24日日曜日

5.カルギル・フォレスト・パークともう一つのバルー地区。

カルギル・バザールを出てバルー方面に歩いている。左手にスル・リバーを望みつつ、歩く訳だが意外と徒歩が多いここの生活もいいもんだと思えてくる。そして定宿も変わって今はエバ・グリーンというとこで屋根を借りている。カルギル・バザールとバルー村の間にベマタン村と呼ばれる小さな村がある。緩やかな坂道を徐々にバルー村方面へ登って行き、歩く事20分程でベマタン村に到着する。この村の左手に見えるスル・リバーの方へ降りていく。しばらくなだらかな道を下っていくと、目の前にとても大きなポログランドが見えてくる。そのグランドの山側には何百人と観客が収容できそうな席が下から上まで設置してあり、日本でいうところの陸上競技場のよな楕円形になっている。だれもいないポログランドを歩いている。

ポログランドの端まで進み、そこから外にでると、次にはカルギル・フォレスト・パークの看板が見えてくる。この公園はカルギル唯一の公園で、街に住む人々の憩いの場となっている。入り口には重く錆び付いた回転扉があり、それを力一杯に体で回して中に入るのだ。中に入ると公園はスル・リバー沿いに奥の方まで長く横たわっており、公園の真ん中には真っすぐ遊歩道が走っていて、遊歩道の両側に木々や芝生が広がっているの。高台から望むとその全体像が分かるのだが、カルギルの街自体が広く緑の中にあるので、自身が緑の公園と言える。しかしそれとは別に公園と言うものは、たとえ街が緑に囲まれていようとも必要で、そこには自分だけの自然を求めて集まってくる人たち、サッカーやクリケットなどのスポーツを楽しみにくる子供たち、友達同士のおしゃべりを楽しみにくる学生たちでいつも賑やかだ。

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公園の突き当たりまで進むと噴水の吹き出すモニュメントがあり、そこから流れ出す泉は遊歩道の溝にそって流れていく。モニュメントの裏側には公園の出口が隠れるようにあったのでそこから外に出る。そこにはスル・リバー沿いに白い石浜が目の前に広がり、白いところの合間に時折深く濃い緑が点在する。川の対岸の山の腹には村の家々が緑の中に散らばり、その遥か彼方に頂きに雪の帽子を被ったヒマラヤの山々が霖としつつ、陽の光を体一杯に浴びている。ここまで来ると人の影は薄く、聞こえてくるのは川のせせらぎと風そよぐ音だけになる。しばらく川の石浜を進む。川の目線で移動すると自分のいる地点から扇を広げたようにジオラマが360度広がるので、ヒマラヤに飲み込まれたようなその点はとてもとても小さく無に等しく感じられる。自分が異物のように感じられる。

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しばらくその広い河原を進み、もうこれで十分だと感じられるまで歩くと、今度は右手の河原の土手を駆け上がる。その緑の森の中に隠れている土手を登り終えると、民家が点在する村にでる。バルー村だ。そこはバルー村でも古いアパートメントが集まっている地域で、周りの村々から仕事に来ている人や仕事を求めて来ている人たちが滞在している。アパートメントの前の土地にまるで昔の遺跡の発掘現場のような穴が空いていた。その穴は崩れないように周りを土レンガで固められていて、かなり深いところまで続いていそうだ。この穴の事を近くの住民に聞くと1999年のインド・パキスタン戦争の時にこのバルー村もまた激戦地になっていて、砲弾が降ってくるときは村人はこの穴にいち早く隠れたそうだ。そうこの穴は当時防空壕として使われていて、そのエリアにはこのような穴がたくさん空いており、わずか10数年前の出来事が、目の前に点在するこの穴たちを見る時、まだ今も戦争が続いているようなそんな錯覚を思い起こすのと同時に、それはその頃の苛烈な日常が垣間みれる瞬間でもあるのだ。

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ここのアパートメント群の地区を歩いていると中に古くてみすぼらしい長屋のアパートが孤独にぽつりとあるのが見える。その軒先にはたくさんの紅色の服が掛かっており、その前でたくさんの住人が井戸端会議をしていた。よく見ると女性たちは頭にスカーフをしておらず、その風貌からすぐにブッディストである事がわかる。その中の年老いた女性はラダック特有の伝統的な衣装に身をくるんでいて、アジア系の顔を持つ僕に親近感を抱いたのか和やかに話しかけて来た。

女性たちが言うには、遠くのシェルゴル村、ムルベク村、ボドカルブー村からここに働きに来ているそうだ。この長屋では多くのブッディストの家族が集団で生活をしているという話だ。僕はこのバルー・カルギル地区にこんなにも多くブッディストたちが住んでいるのに驚いた。カルギル・マーケットをよく伝統的な衣装に身を包んだブッディストをよく見かける。そしてチベタン・マーケットで働いている人たちもみんなブッディストだ。おそらくバルー村のここのアパート群から働きに出ている人たちもきっと数多くいるのだろう。ここのコミュニティは質素な生活でも、その笑顔には全くの悲壮感はなく、すごく生き生きとしていて元気なのには驚いた。だからきっと人間の根源的な人生における価値観というものは、決して物質的なものからではなく、コミュニティの充実が非常に大きな割合をしめるのだろうと感じる。そして心の拠り所である宗教感が充実していると、こんなにも心豊かに過ごせるのであろうかと思った。僕は彼女たちの写真をとり、またバルー村に来た時は立ち寄る約束をして、このブッディストのアパートを離れた。

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僕はバルー村の高いところにあるリンクロードを通ってカルギル・バザールに戻ろうと思った。この道からはカルギルの街と対岸が一望でき、黄昏時のカルギルはいい顔をしているとも思った。スル・リバーの脇にあるわずかな土地に発展してきたこの街は、ヒマラヤの片隅のほんの小さな街なのかもしれない。しかしこの街はインドの端のこんな深いところにありながら、非常に活気があるのだ。これは日本では考えられない現象で、小さな村がカルギルの周りに衛星のように点在していて、その村々には新しい命が毎日のように誕生している。僕は数多くのラダックの村々をまわって来たが、日本でいうところの限界集落というのは確認できず、村々のコミュニティーもいつも安定しているように見受けられた。物質的豊かさは全くないし、医療や福祉や政府機関の汚職など問題はきっと日本よりもたくさんあるのだろう。しかし幸せのレベルは日本よりも高いと感じられるのはなぜだろうか?日本に働きに来ているパキスタンからの友人が言った言葉をふと思い出した。
「日本は生活のほとんどを働く事が占めているね。日本人は本当の人生の使い方を知らない。そして僕はいつもパキスタンに帰りたいと思っている。なぜならばそこにあるものは虚構ではなくすべて本物だからだ。」

僕は緑の帽子を被った白亜のバルー・カンカを左の高台に望みつつ、その言葉の意味がほんの少しだけ分かったような気がした。

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