2011年8月20日土曜日

7.ケッタラーマ寺のつれづれなるままに 其の一。

 スリランカのお寺では毎週土曜日の夜になると、ボーディプージャの法話会がある。スリランカ仏教では花であるとか心であるとかをお釈迦様に捧げる日がある。これはお釈迦様の教えを忍ぶため会なのだ。寺の回りに夏の夜の静かな帳がおり始めた頃、檀家の方々がお堂に集まり始める。

 ろうそくを灯したり、線香を焚いたりして、おのおのがおのおのの方法で釈迦仏に祈りを捧げている。お堂の中で祈りを捧げるもの、お堂の外の小さなパコーダの前に座り祈りを捧げるもの、もっと遠巻きにお堂を眺めながら祈りを捧げるもの、さまざまだ。
 
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2011年8月19日金曜日

6.クルネーガラ・ロックとサマーディ石仏とペラヘラ祭と。

 僕とダマはクルネーガラ・ロックへ登る。クルネーガラ・ロックは地底から突如生えてきたような岩の固まりが空を埋め尽くすかの如く巨大な一枚岩の山を作っている。低地より見上げると岩山のてっぺんに白い何かが鎮座しているのが見える。それはクルネーガラの街を空から見守っているお釈迦様だ。

 岩山の縁に手すりがついており、それに沿って僕たちは白い釈迦像に向って登っていく。天気が不安定な中、雨の心配をしつつ僕たちは登っていく。その岩山の斜面は滑り易く、ダマが履いているスリッパもまた滑り易い。僕たちは細心の注意を払いながら登る。岩山の中腹まで登り振り返ると、そこには絶景があった。

 右手にはクルネーガラの貯水池が見え、街は目の前に小さく固まっているが、圧巻はその周りを覆い尽くすかのごとくの緑輝くジャングルだ。僕たちは頂上へ急ぐ。遂に岩山の一番高い所に辿り着いた。頂上にそびえる白亜の美しき彫像の視線で僕もクルネーガラの街を見下ろす。

 目の前に広がる緑は地平線まで続く。それは深くて遠い。緑のカーペットの切れ目よりどんよりとした厚い雲が続いている。そしてジャングルの中に突如と現れた足下の巨大な岩山は、広大な緑の中の大地のへそだ。へそを中心にして広がるジャングルは緑の巨人だ。そして僕はその巨人のお腹のへその上に立っている。

 その巨人は眠ったまま、さっそくやって来る夕立に飲み込まれようとしているのだ。顔にポツポツ雨が落ちてきた。僕とダマは急いで岩山から降りる。手すりに捕まりながらゆっくりと降りる。雨で岩が濡れてきたので、ダマのスリッパは良く滑り体勢を時々崩してる。その度に僕はダマの手を掴んで滑落しないように引き戻す。

 雨は徐々に激しさを増し、僕は傘を広げる。そしてゆっくりゆっくり降りるのだ。岩肌は濡れ、傘も濡れ、僕らも濡れる。傘は役立たず、滝のようなその雨は、都会の一角に突如現れた大自然の中に閉じ込められ哀れな二人に容赦なく襲いかかる。それと対決する事一時間、僕らは濡れながらやっと地上に降り立つ。

 すると雨はぴたりと止んだ。見事に止んだ。しかも雲の間より太陽が顔を見せちゃったりもしている。僕は傘を折りたたむ。そして実にタイミングが悪いこの二人は空に向って各々悪態をつく。

「お前なんてどっかに行ってしまえ」

「二度と来るんじゃないぞ」

 すると再び一気に空は暗くなり、僕らに傘を開く時間も与えず、頭にバケツの水をこれでもかと言う程浴びせかけた。

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 ある日の夕刻に僕たちは、クルネーガラで行われるペラヘラ祭へ行く。この祭りはキャンディの祭りが有名であるが、実を云うといろいろな場所で持ち回りで行われているのだ。それが今日クルネーガラで行われるというわけだ。昔は二つのペラヘラ祭があり、ひとつは紀元前3世紀まで遡る。

 これは神々に降雨をお願いする祭りだったようだ。もう一つは紀元4世紀にインドからスリランカに仏歯(お釈迦様の歯)が持ってこられた時に祭があった事が伝えられている。そして現在に通じる祭りは紀元1781年から1747年に、キャンディの王様が庶民のために仏の歯を謁見できるようにと祭を始めたのが、現代に続く祭の系譜だと云われている。

 この祭りはゾウの背中に大切に乗せられた仏歯を中心にして、その周りで人々が伝統的な衣を身にまとい、踊りなどを披露するのだ。

 僕とダマはペラヘラ祭へ向う途中スリランカ最大のサマーディ石仏を見に行く。

 僕はある日、アフガニスタンのバーミヤンの石仏が破壊された時に、スリランカのとある村でこんなやり取りがあった事を聞いた。

 少年は大僧正に訴えた。
「モスクを壊しましょう」

 大僧正は答える。
「仏教の歴史では、たとえ誰かが私たちを殴っても、殴った相手にたいして、殴り返したことはありません。仏教は慈悲の教えです。ですからモスクを壊すのではなく、そのかわりに仏像を一つ造ったほうがいいんじゃないですか。それも、ここにこんなに大きな岩山がありますから、このぐらいの仏像を造ってもいいんじゃないですか」

 初めて子供たちが集めてきた寄付金が1358ルピー。それが今では世界中から寄付が集まってくるまでにもなったのだ。日本から寄付もかなり多い。2012年完成予定のこの石仏は、大々的に来年壮行式典が行われる予定があり、僕も来年は参加したいと思う。

 そして小高い岩山の頂上付近には大きな制作途中のサマーディ石仏があった。小坊主たちも石仏の工事に参加している。黄昏が深まり始めてもライトを付けてみんな作業を続けていた。夜になってもこの像にお祈りにくる人々の足は途絶えない。21メートルものこの石像は岩の高みから地上を見下ろす事になるのだろう。

 この石仏の意味は仏教だけに留まらない。この石仏はイスラム、タミル、シンハラと宗教民族の垣根を超えて協力し合って作られているのだ。お互いアイデンティティーを認めながら、それらを超えつつ、協力する事の意味はすなわち、世界が目指す所の恒久的な平和であり、そしてそれが世界の人々の指針になってくれればすばらしい事だと思う。

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 僕らはペラヘラ祭に向う。奥の空き地では大規模な移動遊園地が敷設されており、すでにクルネーガラや近郊の村々からの人で溢れかえっていた。かたかたと観覧車が回り、メリーゴーランドも回り、小さな線路の上を小さな小さな汽車も回っている。

 敷地の中心では大きな金網のボールの中を自転車がぐるぐる回る曲芸の公演時間前の観客の呼び込みが行われている。様々な屋台では様々なスリランカの伝統的なお菓子が並び、その横ではおばさんが線香を売っている。長い長い竹馬を履いたピエロがぎこちなくステップしている。

 夜の移動遊園地は不思議な世界だ。夜に展開されるのはフェリーニの世界だ。それはジェルソミーナとザンパノの世界だ。しかしここの移動遊園地はニノ・ロータはいない。あくまでも陽気な南の島の音楽だ。10時30分。ペラヘラ祭最後の催しが行われる。像の背中に仏歯が乗って登場するのだ。

 すでに沿道にはたくさんの人だかりが出来ていて、おしあいへしあいの大変な状態になっていた。最初に登場するは火が盛っているたいまつを持ちながらの踊りだ。民族衣装をまとった彼らの踊りは激しく、くるくる回る火は夜の闇に何輪もの大きな花を咲かせている。踊りと踊りの間に体中を装飾したゾウが何頭も行進してくる。

 そしてまた踊りだ。夜の中のたいまつの中で揺れる影は、南国の情熱と幻と音と大自然をまとって、ゆらりとした時間の中に溶けている。祭りの熱は徐々に上昇して、それが気圧までを変え、雨にならないものかと心配になってくる。そして遂に仏歯を乗せたゾウが登場した。祭りは最後の熱気に包まれている。

 のっそりと歩くゾウの背中に乗せられた電飾で飾られた小さな箱は、右へ左へと揺れている。この小さな箱の中に仏歯が入っているのだ。2000年以上もの時を超えてそれが宗教となり、こんなにも崇められている一人の男は、もしこの光景を見たらどんな感想を漏らすのだろう。

 しかし僕たちはすでに仏陀の手を離れているようで、まだ手の中に居るようでもある。そして祭りの熱は夜中の12時30分には冷めた。帰り道人の波は一斉の同じ方向に向いて動き出す。

 その細い道には夜中の黒い大群の固まりとなって出口を彷徨っている群れがある。夜はうごめき、覚める事のない夢は続き、熱と幻の間を僕はこれからもずっと彷徨い続けるのだ。

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2011年8月18日木曜日

5.アヌラーダプラ。

 ダマの生家より西方へバスで1時間半ほど行ったところにアヌラーダプラという名の仏教の遺跡が散在している聖地がある。バスを降りると聖地は人と熱気で溢れかえっていた。そこからスリーマハー菩提樹の入り口までの30分は幅広の一本の道が続いている。

 その道は一つの川を跨いでいて、ふと視線を右に移すと欄干の奥で沐浴をしているお坊さんの姿が見えた。スリーマハー菩提樹がある門の手前のすべての店は蓮の花を売っている。僕たちは店を一軒一軒吟味して回り、お気に入りのロータスの花こと蓮の花を小さな箱ごと買う。この蓮の花を菩提樹に奉納するのだ。

 しかしその道は平素に見えるが実は険しい。最大の関門が最初にあるのだ。ここにはあの魔物が住んでいるのだ。それは灰色の毛に黒い顔と長い長い尻尾を持った魔物だ。それは灰色の尾長猿だ。その魔物は蓮の花を見ると案の定一気に飛びついてきた。食べるつもりだ。チョコレートより蓮の花が大好物なのだ。

 罰当たりな魔物から僕は花を全力で守る。僕とダマはその魔の区間を素早く通り過ぎやっと門に辿り着いた。僕たちは門の前で靴を脱ぐ。門をくぐると目の前にスリーマハー菩提樹が見えてきてその回りを寺院が囲んでいる。

 そしてその寺院には大勢の人たちが押し合いへし合いしながら、蓮の花を奉納するべく、長い行列が右から左から正面からと出来ていた。菩提樹の寺院からほんのちょっと離れたところでたくさんの人が各々の姿で一心にお祈りをしている。

 その熱気は日本の初詣に半ば似ているが、半ば似ていない。やはりこのスリランカ仏教独自の空気なのだ。絶望的な日本の初詣的混雑ぶりは見られず、あくまでもたゆたう水のごとくゆらりとした平和な混雑ぶりなのだ。

 そしてインドのブッタガヤから運ばれてきて、1000年以上の年とともに成長してきたこの分け木は、その太い幹から無数の枝が育っており、その姿は、照り返す太陽の元に熱心に拝まれている翁が誇らしげにしているようにも見えてくる。

 そして僕はここでの裸足での生活が短いので、足の裏は火鉢が弾けているような感覚とともに敷き石に焼かれていた。僕たちはやっとの事、菩提樹下の寺院に潜り込み、少し蓮の花を置き、祈り、また少し蓮の花を置き、祈り、そしてすべての蓮の花を置き、祈り、奉納を済ます。

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 僕たちは裸足のままでスリーマハー菩提樹の近くにあるもう一つの聖地に移動する。足の裏を焼きながら長い石の連絡道を歩き続ける。その熱さは足の裏の肉でステーキが焼けそうなほどだ。心頭滅却は非常に難しい。火はいつまで経っても火であった。

 そして何とかルワンウェリ・サーヤ大塔に辿り着く。そしてこのパコーダはでかかった。天をも恐れぬその大きさのパコーダは、青空に美しい白亜のむっちりとした円錐型のシルエットを映し出す。さんさんと降り注ぐ太陽の光はパコーダの肌に反射して白熱している。このパコーダもたくさんの巡礼者を吸い寄せる。

 スリランカン巡礼者はこのパコーダに向かい熱心に祈りを捧げている。そして外国人観光客はフライパンの上で踊っているかのごとく、焼け付く足の裏を気にしつつ、ぺたぺたと忙しなく歩いている。

 僕たちはパコーダを中心にして左回りに歩く。パコーダもまた一つの怪物だ。この地にそびえる巨大な怪物だ。人の思いを食べて成長する怪物だ。それは強く優しい怪物だ。時を超える怪物だ。二千年近き昔の思念を乗せて今を羽ばたく怪物だ。怪物は微笑む。静かに暖かく微笑む。

 その微笑みは祈る者に届き、祈らぬ者にも届き、アジアに届き、世界中に届く。怪物は語る。静かに暖かく語る。その語りは祈る者に届き、祈らぬ者にも届き、アジアに届き、世界中に届く。その優しき怪物はこう云うのだ。
 
「仏陀の声を聞きたければこの高い塔に登って天に呼びかけるのではなく、その低い地上から雑踏に向って呼びかけなさい。仏陀は雑踏の中にある。あなた方もまた一人の仏陀なのです」

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 僕たちはアヌラーダプラの雑踏の街中から古バスに揺られながら、クルネーガラに帰る。熱さに疲れと相まって僕たちは座席に体を支えられ眠った。青い空のもとジャングルの中に続く一本の道を古バスは右に左にお尻を揺らせながら進む。そこには平和なスリランカがずっと続く。

 スリランカは2年前にLTTEとの戦闘を集結した。長い長い民族間の紛争が終わりここアヌラーダプラから北部地域東部地域にも平和が訪れた昨今でも、まだまだ沿道上には厳重な警備が続いている。今までも大変だったが、しかしこれからの道のりもまたまた大変であろうと思う。

 真の平和が訪れたならば、それは本当の意味でのスリランカの出発点だ。あらゆる民族・宗教が融和し協調しこの国を良き方向に導いていくのだ。

 世界は泡沫である。人生は束の間に過ぎない。
 母体に宿るそもそもから、墓場にいたるその時まで、
 人生は苦の連続である。揺りかごからとり出される。

 それから気兼ね苦労で育て上げられる。
 さて、こうした末に、成り上がった人の命が不壊なればこそ、
 生命の頼りがたなさは、水に描ける絵、砂に刻める文字もおろかである。

 内地にいて感情を満足させたい、
 これはけだし人間の病気である。
 海を越えて、他国に行くことは、
 困難であり、また危険である。

 時には戦争があって、われわれを苦しめる。
 しかし、それが終われば
 こんどはまた平和のためにいっそう苦しむ。

             ~詩人ベーコン

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2011年8月15日月曜日

4.ミーウェラワのお寺。

 朝ダマとミーウェラワのお寺に向かう。ジャングルの中のそのお寺は掃き清められて清潔であり、檀家の村人のたゆまぬ努力により丁寧に維持されていた。寺は村の一番奥にあり、淡い黄色と白を中心とした優しい寺の色使いは見る人を柔和な気持ちにさせ安心を誘う。

 寺の門をくぐると檀家の女性が顔を左にちょこんと倒して「アーユボーワン」と僕に云う。日本でいうとろのこんにちはとかさようならなどの挨拶に相当する言葉だ。僕も「アーユボーワン」で返す。島の青空に高々と鐘の音が響く。

 鐘は小さなキリスト教会にあるものと同じように小柄で、その音色も可愛くきんころと何度も何度も村の空に鳴いていた。南の島のこのお寺のホールにはすでに檀家の人たちがたくさん集まっていて、その風通しのいいホールでおのおのみんなくつろいでいる。白い服を着た村人は僧侶のダマの到着を待ちわびていた。

 ダマはホールの壇上に上がると、右手に持った大きなうちわでパタパタ仰ぎながら、お経を唱え始めた。ダマのスリランカスタイルのお経は歌だ。ダマは歌い続ける。日本のお経とはまったく異なったそのスタイルは、始めて聞くものにも優しく届く。

 夏の朝に響くダマの美声は鐘の音に乗ってそして風に乗って村中をゆらりゆらりと巡っている。ダマが一句歌うとそれに続いて村人も歌う。そして一心にお祈りをしている村人の横で一匹の犬があくびをしている。ゆるく流れる空気の中でダマの歌もゆるく流れ漂う。

 寺内の菩提樹はダマの言葉を拾う。言葉はうつろだ。だから言葉を拾うのではなくたぶん言葉の実を拾っているのだ。そして菩提樹はその実を食して成長し続けている。しかしその菩提樹もうつろだ。うつろが実を掴んでいるように思える思念のパラドックスに落ち込んでいく。

 心の中の世界は怖い。心で見て聞いて感じるこれもまたただの胡乱なのかもしれない。全てがあやふやな存在であり全てが明確に存在しているようでもある。しかしダマの歌声は実だ。確実に存在している。聞こえるだけではなく見る事が出来るし感じる事もできる。うつろではなくしっかりとここにあり続けているのだ。

 言葉の色が見える。言葉の匂いが嗅げる。言葉の味が分かる。それは実だ。しかし瞬間の確実性も次の瞬間には不安定な実になっている。それを掴もうとしている僕は目であり耳であり鼻自体なのだ。

 そしてきっと僕は一本の大きな大きな菩提樹なのだ。ふと僕は心地よい眠りより目を覚ました。寺内の菩提樹の下で犬とともに眠ってしまっていたのだ。

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 ダマは説法が終わり僕たちは、寺の片隅にある小さな家に入っていく。僕たちはその小さな家の奥の間に通される。その部屋でも一人の老僧がベットに力なく横たわっていた。彼の喉と胃からは医療用のパイプが出ておりその先は機械につながれていた。男はこの寺の住職だ。

 男は身振り手振りのジェスチャーでダマに語りかける。ダマはベッドの横に跪いて男の手を握ると男のジェスチャーを一心に聞いている。死が近づいてきている。それは誰にでも分かった。それを意図せずダマは健常者に語りかけるのと同じように男に優しく淡々と何かを語りかける。

 男も淡々とジェスチャーで返す。数分の不思議なやり取りの後、付き添いの医師よりストップがかけられる。お互い納得したようでダマは立ち上がると静かな笑みをたたえて無言で部屋を出る。部屋の応接室では檀家の方々が部屋の方向に熱心にお祈りをしている。中には泣いている者もいる。

 ダマはその泣いている檀家に歩み寄ると肩に手を置き一言二言短くつぶやく。その人は顔を上げ強くうなづくいて涙を拭う。そして僕たちは住職の家を後にしたのだ。

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 ダマの家では昼食の準備が出来ていた。僕はそこで初めてカードと言うなの水牛のヨーグルトに出会った。このヨーグルトは臭みがあるのだが、その臭みがカードの独特の食感と美味く戯れて、しっかりとしたヨーグルトに仕上がっているのだ。

 日本で食べるような水っぽいヨーグルトではなく、歯ごたえがしっかあるヨーグルトで、それにこの村で取れた蜂蜜をたっぷりかけて食べると、これまた美味さの壁を何段何段も突破したような名状しがたい味になるのだ。蜂蜜も日本の水っぽいものではなく濃厚で香り高くねっとり絡み付くような蜂蜜だ。

 これを惜しげも無くたっぷりとかけて頂くのだ。うまみの限界をすでに突破したそれらはすでにうまいとかまずいとか、そんなやりとりがまるでばかげているかのごとく、別のベクトルで高みからそれらを静かに眺めている達観した大人の味と人間の根源的な味覚に訴えるこのカードヨーグルトは実際ものすごく美味かった。

 食事の後、子供たちに誘われて僕は再び庭に出る。その庭では一人の少年がさとうきびを鉈で切って僕にくれた。そのサトウキビは一口食べると口元がべとべとになるくらいの豊満な砂糖汁が溢れ出てきているのだ。それを右手でぬぐいぬぐいしながら咀嚼する。そしてまた違う少年は熟したマンゴをたくさん持ってきてくれた。

 それの頭を少し食いちぎって、じゅじゅじゅっと吸い込むのだ。そのねっとりと甘く高らかに広がる香りと相まってこれもまた逸品中の逸品であった。僕は部屋の片隅にマンゴを転がせておく。そしてしばらくするとその濃密な香りは部屋中にゆっくり漂い、あらゆる場所に匂いを付けていき、自然のフルーツパフュームの出来上がりだ。

 ここの生活の多くのもの自然から手に入る。そして自然に戻すのだ。サトウキビやマンゴの皮もジャングルの奥になげやる。一日経たずにそれらは虫の食べ物となり、なり得無かったものはいつか土に戻るのだ。人もまた然りだ。水は地下水から汲み上げて、食料は自然より頂く。

 子供たちは生まれた時より自然と親しみ、その生活方法をいつしかより良く極めて、次の世代に受け渡す。仏教とともにあるここの生活は、仏教がこの地に根付く前より続いている生活かもしれない。しかし人間が迷い続けてきたその答えがたまたまこの村では仏教だったのだ。

 宗教とはそう云うものだ。仏教もキリスト教もイスラム教もその他の宗教も、元を辿ればよりよい人間であるための方便を技巧した戒めの法なのだ。それはなんであれその人たちが救われるならそれで良いのだ。そしてそれが全てなのだと僕は思う。

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2011年8月14日日曜日

3.ジャングルの中の村、ミーウェラワ。

 僕と僧侶のダマはクルネーガラのバスターミナルから古バスに乗り換え北へ向った。果てしなく続くココナッツの木やバナナの木の並木道をバスに揺られてひたすら進む。陽気な音楽がバスの中にかかっている。僕もスリランカ・レゲエのリズムを口ずさみながら車窓の風景を眺めている。

 沿道にときおり見える店はあくまでも南国風で、瓦やバナナの葉で作られた屋根が常夏の日差しを受けて輝いている。遠くに大きな湖が見える。その湖から飛び立つ白い鳥の群れは青い空をゆっくり旋回しながら北へ向うところだ。

 窓から吹き込むインド洋とスリランカ内陸を旅してきた風は、小さなつむじ風を作って向かいの窓から抜けていく。沿道のジャングルたちは付近の村人たちによって掃き清められており、淀んだ淵のような所は見当たらず徹底的に清潔だ。

 ヒマラヤ山脈の乾いた山肌にはよく人を不安にさせる強い色の赤土が見られたが、この土地によく見られる赤土は優しくてさわやかな赤だ。木陰の下の赤土に犬が横たわっていたり、猫があくびをしていたりする。そしてときおりそこで人も昼寝をしているのだ。

 もちろんその上ではバナナの木の葉が涼しげに揺れている。そんな事を考えていると気持ちいいバスの揺れ方は眠気を誘う。そんな中長い長い木のトンネルを古バスがえっちらほっちらと尻を右に振り左に振りながら進んでいく。

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 バスは4時間ほど走っただろうか、僕とダマはジャングルの中の交差点で降りる。僕は交差点の真ん中に立って北を見る。道は地平線まで続いている。東を見る。道は地平線まで続いている。南を見る。道は地平線まで続いている。西を見る。道は地平線まで続いている。

 そしてそこは徹底的に静かで、空気は緩く、太陽は眩しい。目を凝らすと西の果てには砂埃がかすかに見え、それが徐々に近づいてくるのが分かった。そして待つ事10分、緑と黒のツートンカラーのトゥクトゥクがえっこらよっこらとやって来た。

 インドのトゥクトゥクはただの瓦礫の汚れた棺桶に見えたのだが、スリランカのトゥクトゥクは違った。それはまるで走る三輪の旧式ミニクーパだ。まるで人が乗る事ができるてんとう虫だ。太陽によく映える磨き込まれたその緑のボディは、光を柔らかく反射して、自然の中に優しく溶け込んでいる。

 小さな羽根がついているかのようで、今にもしゃかしゃか音を立てて飛んでいきそうでもある。僕たちはトゥクトゥクに乗り込むと西へ向った。トゥクトゥクはジャングルの中、真っすぐな土の道を走る。道の両側には低木の原生林が続いており、その向こうには小さな湖がいくつも見える。

 数種類の水鳥たちはのどかな中、高い声や低い声で時折歌う。家は一軒も見当たらず深いジャングルはまだまだ続く。はてこんな所に村なぞあるのだろうかと少し不安になる。30分ほど走っただろうか、家が一軒また一軒とジャングルの木々の間に見えてくる。

 そして村らしい程よい密度が現れるとそこでトゥクトックは停まった。僕たちはトゥクトゥクを降るとダマの生家に向う。

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 そうこの村はダマが生まれた村なのだ。村の名前はミーウェラワ村。スリランカ北方のジャングルの中にある小さな村だ。スリランカの北方はクルネーガラより乾燥しており、ジャングルは広大だが密ではなく木々の間は広い。サバンナの中にある亜熱帯のジャングルという感じなのだ。

 高く青い空の下に、緑輝くバナナの木やココナッツの木が程よく茂り、その下に覗かせる少し乾いた大地の上に、南の島独特のスタイルの家々が点在している。ダマの家の敷地は広く(敷地の概念があるのかは謎だが)南国風の家は平屋でも広く、始終開け放している扉からはスリランカの香りを乗せた風が入ってくる。

 村には大きな井戸がたくさん点在していて、水も豊富にあるのだ。さっそく到着したばかりの汗まみれになった体を井戸水で洗う事にした。井戸の縁で僕は上半身裸になると、井戸に沈んでいる樽を素早くロープを引きつつ引っぱり上げる。樽の中にたんまりと入った井戸水を頭からかぶるのだ。

 そして石けんで体を泡立てて井戸水を何度も頭からかぶると汗とともにそれらをきれいに洗い流す。僕は体をタオルで拭いながら村の表情を眺めている。黄昏に沈む村の姿はとても美しく、木々や家々が長い影を作り、その影の間を子供たちが遊び回っている。

 名も知らない数多くの鳥たちがいっそう高く鳴き、近づきつつある夜の帳の事を語り合っている。夕暮れの風は昼間の常夏の風とはまた違い、日本の彼岸あけの夜風に似ている。風の中に微かな夏の匂いを閉じ込めているのだ。もしこれが日本なら秋の到来を告げる風にもなろうかと思う。

 悠久の彼方遠くの時代とあまり変わらない生活が続いている。空は昔から変わらずに同じ空の表情を演出し気が遠くなるほどの長い年月を淡々と繰り返している。木々もまたそうなのであろう。そしてそこにある全てがそうなのであろう。そこに人が住み着き、また昔とあまり変わらない生活スタイルを守り続けているのだ。

 今の世界の陳腐な飽食の時代に、そのスタイルは斬新で美しい明日の顔を世界中に見せつけているようでもある。これから世界は今とは違う文化的価値を求めてせわしく輪廻するかもしれないが、この村は過去から未来へとゆっくり発酵を続けながら成熟していき大人の文化を世界の片隅で蒸留してきたようでもある。

 急ぐ必要は無く取り込まれる必要も無くいつか世界が気づくかもしれないこの素敵でシンプルな価値観は次世代のラダックになるかもしれないと思った。

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2011年8月13日土曜日

2.小さなジャングルの中のお寺~ケッタラーマ・エンシャント・テンプル。

 
 青ペンキをひっくり返した空が地平線まで続き、その淵を入道雲が綿菓子のように沸き立ち、横一直線に伸びる飛行機雲がその青ペンキをきれいに二分していた。クルネーガラに向うバス内は、スリランカとは思えない多彩な音楽が花を開かせていた。

 スリランカ・レゲエ。スリランカ・カリプソ。スリランカ・サンバ。スリランカ・サルサ。スリランカ・ハワイアン。スリランカ・ボサノバ。南国の音楽をすべて網羅したような選曲はここがスリランカ、中南米、南米、ハワイ、ミクロネシアなど、実際本当にここがどこの国なのか分からなくなる錯覚に襲われるのだ。

 そしてバスの面前ではココナッツの木やバナナの木たちが長い並木道を作っており、車窓からみえる平屋レンガ作りに瓦屋根の家々は点々と見え、それらが南国の音楽と相まって何かゆったりした気持ちと心騒ぐ気持ちが交互に顔を出して、その不思議な浮遊感がすごく心地よいのだ。

 時折バスが路肩のバナナの皮を編んで作られたようなフルーツショップの前で停車すると、静かに扉は開き、濃厚で豊潤な果物たちの香りは、フルーツショップから海風に乗り車内に運ばれて、乗客に甘い香水の香りを付けて逃げていく。

 そして何度も開いたり閉じたりするバスの扉はスリランカの様々な香りをその都度運んでくる。三時間ほどジャングルの緑と空の青と太陽の光の道を走るとクルナーガラの街が見えてくるのだ。

 クルナーガラの街の中心には古い時計塔が建っており、その横にはところどころを緑に覆われている巨大な石山がそびえて、その頂上には青空に映える白亜の仏陀の座像が鎮座している。街の中心はショッピングセンターのビルに囲まれたバスターミナルで、そこから絶え間なく東西南北各方面にバスが出入りしている。

 僕は乗ってきた古バスから降りると、ベーカリーショップに入り、そこで昼食を取り終え、今度はスリーウィーラーに飛び乗った。途中スリーウィーラーはムスリムたちが多く住む地区を通り抜ける。自転車に乗った子供たちの頭にちょこんと乗せた白い帽子が可愛く揺れて涼しげだ。

 この地区のモスクはキュートな成りをしていて、その姿より一目で平和な文化が感じ取れるのだ。僕はカシミール州スリナガルと対比をすると、いろいろな出来事が頭を駆け巡り、何故だか少し涙が出てきた。スリーウィーラーはクルナーガラの街を外れて、ココナッツの木やバナナの木が生い茂る小さなジャングルに入っていく。

 高い木の葉の間から時折強い太陽の光が、スリーウィーラーを射すが、森を走り抜ける時に横から優しい風が入り込んで来て、彼らは僕の体を優しく包み込む。鳥たちの鳴き声は高く広く天に響き、ココナッツの木にリスが駆け登ると、葉の横よりちょいと顔を覗かせ、僕たちの様子を伺っている。

 小さなジャングルの中に続く細い並木道の両奥に時々ぽつぽつとスリランカ南国風のレンガ作りで南国瓦の平屋の家が見え始める。30分程走るとその家々の密度も濃くなり、村である事がわかる。細い分岐の道を右に曲がると田んぼが遥か彼方まで広がっていて、カエルの鳴き声が聞こえてくる。

 その田んぼの奥深い所からまた小さなジャングルは続いている。田んぼに沿って右手に白亜の小さなお寺が見えてきた。ケッタラーマ・エンシャント・テンプルだ。僕はしばらく滞在する予定のお寺だ。

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 表に鎮座している仏陀に頭を下げながら僕は寺に入っていく。小さな犬が二匹しっぽを振って僕を迎えてくれた。小さなジャングルにあるその小さなお寺は、日本のお寺とは様相がまったく違い、あくまでも徹底的にかつあくまでも優しい南国風だ。

 レンガ作りの平屋の建物が小さなジャングルの中に点在していて、それがメディテーション・センターだったり、食堂だったり、お坊さんたちの宿泊所だったりする。ココナッツの木やバナナの木がの中にある菩提樹が辛うじてここがお寺だと感じさせてくれる素敵なオブジェとなっている。お坊さんのダマナンダ氏も出迎えてくれた。

 杉本哲太に良く似た風貌のダマは、僕が日本にいる時よりずっと連絡を取り合ってきた間柄だ。寺の中をいろいろ案内してもらう。とはいえこの小さな寺をすべて見て回るのは5分もかからない。小さなジャングルの中の小さな小さなお寺なのだ。僕には一つの部屋が与えられた。

 その部屋はベッドが付いて、そのすぐ横に小さな書斎もあり、奥にはシャワールームとトイレが付属していてなかなか快適だ。小さなキャンプ場の古いバンガローに滞在する感覚だ。しかもそれがこんなジャングルだったらなんて素敵だろうと思わせてくれるような場所なのだ。

 静寂の中に鳥と鳴き声と風の音だけが聞こえる。小さなジャングルの外には広大な田んぼが広がっていてそれは日本の田園風景とちょっぴりシンクロする。スリランカの田んぼの端っこの小さなジャングルと共に立つこの小さなお寺は、日本での田んぼの端っこにひっそりと立つ道祖神や小さなほこらとイメージが重なるのだ。

 何もないようなのに、すべてはある、そんな感じがする不思議な空間なのだ。風も太陽の光も青ペンキの空も遠くに沸き立つ入道雲もココナッツの木もバナナの木も虫の声も鳥の声も葉っぱの横から顔を出すリスも南国の小さな家々もそしてなによりも素敵な人々がいる。そうここにはきっと求めていたすべてがあるのだ。

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2011年8月10日水曜日

1.スリランカと言う名の楽園。

 コロンボの空港に到着したのは、とっぷりと日は暮れて、すでに日付が変わろうとしていた頃だった。夜は温かくも海からの風が心地よく、僕はタクシーに乗リ込むと窓から流れ込むその優しい風を感じながらコロンボの街中に向った。コロンボに続く道路はすばらしくきれいで、インドから来た僕にはそれは衝撃だった。

 車が道路を普通に走れるのだ。インドの道路は日本の道路のおおよそ20パーセントから30パーセントの出来で完成だと見なされる。もちろん設計段階の青写真は完璧らしいのだが途中でいろんな役人の懐にお金が回り、すっかり少なくなってしまった資金で工事が行われるのだ。

 当然のごとく途中の工事過程は大部分がなくなる。僕はインドで道路作る時に測量をしている所を見た事が無い。だから車はまともに道路を走る事が困難だ。インドでは机上は完璧、実践は適当という二分立の理論がそこかしこでしっかりと守られている。

 しかしスリランカは違った。道が路肩までしっかり作られており、道路とそうでない部分がはっきりと分かるのだ。

 昼間の道路工事を見ればわかるのだが、しっかり測量をして、盛り土はきれいに整地されて、日本の道路工法とほとんど変わらない手順を踏んで、その精巧さに少しの愛情で道路を作り上げている。インドからそれほど離れていないこの島の道路の美しさはまさに衝撃的だった。

 コロンボ市内はイギリス植民地時代の古い建物が数多く残っており、そのヨーロッパが薫る所に南国のスパイスが加味され独特の雰囲気を作り上げている。

 僕が泊まる安宿も古いコロニアルな雰囲気を存分に放っていて、中庭をぐるりと古い建物が囲むスタイルは中世の貿易商人たちの過去の風が見え隠れする。そしてレセプションのやたら陽気なスタッフが満面の笑みをたたえて云う。

「何?このホテルに泊まりたいだって、オッケー、ノンプロブレムだ。これがキーだ。トイレとシャワーは共用。ここにサインすればそれだけでダンだ。」

 左の腕に古いポパイの入れ墨をした古老の船乗りが古いレセプションの木のテーブルに肩肘をつき古いパイプから口を離すと僕にこう云う。

「ようこそ。愛と希望と平和の国スリランカへ。そして夢と冒険の国スリランカへ。あなたはきっと後者のスリランカを望んでいそうじゃな。フォッフォッフォッ」

 そして老人はハンチングを目深にかぶり直すと快活に豪快に笑うのであった。

 僕の部屋は最上階にあり、古い木製のドアを開けると、広い部屋にでかいベッドが横たわっていて、天井では大きな羽根が軋みながらゆっくりと空気をかき回していた。

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 夜の街を散策する。宿でいっしょになった日本人旅行者と共にコロンボの街中巡りをする。夜の喧噪はデリーのそれとは違いはんなりと気品がある。バスターミナル近くのマーケットは遅くまでやっていて、人だかりもそれなりにあり、そこには危険よりもゆるい平和が染み付いている。

 行き交う車も声をかけてくるスリーウィラーも群がる蠅に感じたデリーに比べるとそれらは優雅に飛び交う蝶に見えてくる。海からの風が美しい南国の島を演出し、デリーで感じた夜の深い闇はここでは星が描かれた壮大な天井絵に変わる。ホテルに戻るとその古い建物の廊下はぎしぎし鳴りながら僕をむかい入れる。

 ペンキがはげ落ちた部屋の壁も胞子が絡み付くようなデリーの陰湿さではなく、それ自体がトロピカルな南国のイメージを作り上げている衣の一部に見えてくる。僕はベットに倒れ込むとそのまま深い眠りに落ちていく。

 次の日の朝は眩しい太陽が、開け放された両開きの窓より差し込むと、さっそく海風が僕を起こしに来た。僕は眠たい目をこすりつつ、疲れた体をベットから起こす。窓から見えるコロンボの風景からは天を高く青い空に映える植民地時代の建物たちの今も生き続けている鼓動のようなものが聞こえてきそうだ。

 朝食は近くの食堂でパンとコーヒーを取る。とりとめもない食事なのだが、デリーで毎朝路上の店先で名前が分からない食べ物に群がる虫たちを、手で追い払いながら食べた日常の風景は、今となってはそれが非日常に代わり、スリランカの日常の風景がそれにとって代わって入ってくる。

 朝食後、僕はバックパックを背負ってバスターミナルに急ぐ。今から未知なる世界にふたたび飛び込んでいくのだ。クルネーガラ行きのバスに飛び乗ると、たくさんの人たちを飲み込んだその古バスは、お尻を左右に振りつつ、澄んだ青空と眩しい太陽のもと、夢とか希望とかそんなものをもんをたくさん乗せて、砂埃を巻き上げてさっそく出発するのであった。

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2011年8月9日火曜日

2.爛熟のデリー。

 
 パハール・ガンジより細い辻に入り、崩れかけた雑居ビル二階と三階の間にチックの部屋はある。雑居ビルの階段の踊り場にはカシミール・ツーリスト・カンパニーのポスターが張られている。しかしこの先にはそんな会社などない。階段の行き止まりの扉を開けると6畳ほどの小さな部屋がある。

 その部屋には壁一面、床一面にヒンディーの神様の小さな彫刻が飾られている。神様たちはいつもこの部屋で取引されるきな臭い話の一部始終をここで見聞きしているのだ。もちろんチックはヒンディーの神様など全く信じていない。彼はその前にムスリムだ。不良ムスリムの典型的なタイプだ。

 そしてそこにはすでに先客が来ていた。チックはイスラエル人観光客たちを相手にスリナガル・ハウスボート・ツアーの斡旋をすべく熱弁を振るっている。

 チックは僕に気づきチラとこちらに目をやるが、すぐにイスラエル人たちの方に向き直り、ツアー料金を車が何台も買えるほどの値段からイスラエル人たちの値切り努力により一般的に法外な値段と言われている妥当な料金まで値を下げていた。

 イスラエルは自国でパレスチナや隣国相手に政治的軍事的に残酷なショーを演じているが、近隣のムスリム国への旅行が難しいので、インドの中の悪名高いムスリムの国スリナガル、カシミールで安全な旅行を試みようとしているのだ。彼らは自国に戻ると、きっと仲間にこう云うだろう。

「そうさ、あのスリナガルに行ってきたのさ。えっ?やばい事もあったけどどうにかして切り抜けたぜ。なんてったってあのスリナガルなんだぜ。そうだろ?」

 こうして仲間たちの間で彼らの株が上がる訳だ。もちろん彼らにはスリナガルで自国の非道を贖罪しようと言う気持ちなんてまったくない。みんなヒーローになりたがっているのだ。一週間のスリナガルツアーを80000ルピーで彼らは手を打った。イスラエル人たちが部屋を出て行くと僕とチックは久しぶりの再会に軽く抱擁をした。

「相変わらずぼろい商売してるな。」

「人聞き悪い事言うなよ。俺はちゃんと客たちを親切に安全にスリナガルに送り込む事を条件にお互い納得の上の料金を貰ってるんだ」

「そうだな、チックのところは他の業者と違いレイプはしない。客の鞄の中の金に手をつけないをモットーとしてるんだったな」

「一つどうだ」

 チックは自分が吸っているハシシを僕に渡そうとした。

「僕はドラッグとスモークとアルコールはやらないんだ」

 僕がそう云うと今度は目の前のクッキーと紅茶を勧める。

「今はラマダンなのにいいのか?クッキーとか紅茶とか飲んでて?」

 僕がそう云うとチックは天を見て

「アッラー、ごめんなさい」

 と云うと、またクッキーを食べ始める。彼は不良ムスリムの鏡だ。見事なもんだ。
 近況の話でお互い適当に盛り上がり、そして僕はチックの部屋を後にした。

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 不快が渦巻くパハール・ガンジを歩いている。僕は半ば人に興味はあるのと同じくらい人をまったく受け付けない。僕は基本的に集団が嫌いなのだ。人が多い通りを見るとぞっとする。多数派が嫌いで、ダイナミズムが嫌いで、資本主義が嫌いで、コミュニストも嫌いで、強い物は嫌いで、有名観光地は嫌いだ。

 雑踏よりも静寂を愛す困った奴なのだ。ニューデリー駅が人波の向こう側に見えてきても居心地の悪さは変わらなかった。

「ヘイ・ジャパーニ」

 馴れ馴れしく若いインド人が突然僕の肩を掴んで来た。不快は頂点に達していた。その瞬間僕のサイドバッグがふと軽くなったと感じた。とっさに目をそれに向ける。ジッパーが大きく開かれていた。やられたと思った。三人組が蜘蛛の子を散らすように一目散に逃げながら左右の辻に散っていくのが見えた。

 右の辻に入っていくネイビーのTシャツを着た青年の手に僕のカメラが握られているのを確認すると、僕は大声で喚きながら即座に追いかける。僕が右の辻を入ると男は路地の先の分かれ道を左に曲がろうとする所だった。僕も後を追いながら、その暗く薄汚れた路地を左に曲がる。

 するとそこにはたくさんの人が行き来していて、追う者と追われる者の動向を興味深く見守っていた。男は人を右に左にかき分けながら進んでいく。僕はそのかき分けたところにできた隙間をなんなく真っすぐ追いかける。

 僕の男の背中にあびせる罵詈雑言の汚い言葉はギャラリーをも驚かせていた。次の細いT字路で男が右に行こうか左に行こうか迷った一瞬に僕は彼に追いつく。僕は男の肩をはずれんばかりに掴むと強引にこちらに振り向かさせる。

「ハッ!」

 僕は男の右脇腹におもいっきり左のミドルを叩き込んだ。ムチとなった大木が男の脇腹をえぐる。男の臓器が瞬間シュリンクする。男は背中を丸めて小便臭い路地に崩れ落ちると声にならない声をたてた。

「あー」「あー」「あー」「あー」

 男は地面で亀のようにもがきながら口から胃液を吐いている。僕は男の手からカメラをもぎ取ると、男の右足首を掴み引きずって表通りまで引っ張っていこうとするが、体の大きな男は苦しんだまま動こうとしない。

 僕は少し考え一人で大通りまで出ていく。そして警察を連れて戻って来た。その間1、2分だがすでに男の姿は無かった。

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 警察の調書を作成するためだけの現場検証と事情聴衆が終わったのはデリーが黄昏始めた頃だった。解放された僕はパハール・ガンジの西のエリアにあるレストランに足を向ける。そのレストランは大通りより一つ中に入った辻の二階にあった。

 扉を開けるとブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブの”チャン・チャン”が流れていた。ルート66沿いのモーテルにあるような怪しいファニチュアがさりげなく置いてある。

 なにげに抜群にセンスがいい店だ。店の奥でジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグが店内でいい女を物色していそうで、そしてその先のテーブルでトム・ウェイツが酔いつぶれていそうな雰囲気の店だ。

「この店のビートニクはまだ生きている」

 そう感じさせられる店だ。”ジョッキー・フル・オブ・バーボン”がかかれば完璧だと思った。
 チックが奥の席で仲間と戯れていた。チックは僕に気づくと右手で仲間のジョークを制止して云う。

「へい兄弟!さっきポリスのバイクの後ろにあんたが乗ってたのを見た時、これは何かあったなと思った。いったい何があったんだい?」

 僕はチックにカメラ事件の一部始終を話した。どうやらカメラ泥棒の悪たれ達はパハール・ガンジの東側に暗躍している不良グループでチックにも心当たりがあるらしい。

「あんたには悪い事したな。この事件の幕引きは俺にさせてくれ」

 そう云うと、チックが投げたダーツの矢は的の中心で上下に震えて長い影を作っていた。

 次の日の朝、僕は予定より二日早いパハール・ガンジからの一刻も早く脱出を試みるべくホテルのオーナーに訴えてた。

「そういう訳で先払いした二日分のホテル代を返して欲しいのですが」

「ホテル代は返せないな。カメラを取られそうになったのはホテルの外で、中ではないんだろ?」

「お願いします。返してください」

「何度も言うようだけど、返せないね」

「オーケーいいでしょう。もしあなたがお金を返さなければ僕は日本に戻ってこのホテルには泊まらないほうがいいと、その1000ほどの理由と共に、ウェブ上や出版社への投書でこのホテルの真実の姿を訴えかけるでしょう。もしあなたがお金を返してくれたら日本に戻った時、このホテルは素晴らしいと1000ほどの理由と共にネット上や出版社への投書で褒めたたえるでしょう。選択するのはあなたの自由です。どうしますか?」

 するとホテルのオーナーは右の頬を引きつらせながら

「払わないとは言ってないだろうに、なぁ」

 と従業員に相づちを求め、机の引き出しから500ルピー札2枚を取り出すところだった。僕はその手から合わせて1000ルピーをもぎ取るとホテルの前を通りかかったオート・リクシャを呼び止めてそれに飛び乗った。

 オート・リクシャはパハール・ガンジの西の端を左に曲がると赤信号で溜まっている渋滞に巻き込まれた。僕が視線を左に投げ掛けると、舗道上で一人の肌が浅黒い5歳か6歳ほどの少女がまるでスローのフィルムでも回しているかのようにゆっくりと手を使わず顔面でバック転をしていた。

 ちょうど路上にキスをするような形で顔を泥で真っ黒にして何度も何度もバック転をしていた。そして僕はその少女と目が合う。少女はバック転を途中で辞めると、車の間をすり抜け、僕のリクシャに近づいてくる。それから少女はゆっくり右手を僕の方に差し出した。

 僕は先ほどホテルのオーナーからむしり取ったしわくちゃの500ルピー札2枚を少女の手に握らせた。信号が青に変わり忙しく出発したリクシャの後ろから聞こえる少女の声は、街の喧噪と車の砂埃にかき消されていた。

 風の便りで、その数日後インドの新聞の片隅にパハール・ガンジに住む一人の男の失踪の記事が載った事を知ったのは、それから数週間が過ぎてからだった。

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