2011年5月30日月曜日

35.サムラ村の結婚式。

 サムラ村の奥にサムラ・ルンマと言われるエリアがあり、そこはサムラ村の中を流れる川をさらに上流に分け入り、渓谷になっているところのさらに細くなっている針の先っぽにその場所はある。昨日クッカルツェ村より花嫁が奪われてこの地に来た訳である。

 だが昨日は嵐のような雲行きが花嫁の哀愁に拍車をかけていた訳だが、今日は一転して天候は良く穏やかな春の陽気は二人の門出にぴったりで神様もいきな計らいをしたものだと思った。花婿の家に向かう。花婿の家は山の斜面に建っており、すでに来客でにぎわっていて玄関先にも人だかりができていた。

 僕は人だかりを押しのけつつ家の中に入り込んで、花婿の部屋に向かう。花婿の部屋は一番奥にあり部屋の入り口も人で一杯で上がり込んで見ると、花婿は一番奥の壁を背にして座っていた。そして横の壁を背にして花嫁も座っていた。二人揃って見られるなんてラッキーだと思った。

 二人に簡単なお祝いの言葉をかけて花婿と握手をすると、すでに僕の後ろには二人の姿を一目見ようと押し掛けてきている来客でごった返していて(僕もその客の一人なのだが)、面会時間はわずか数秒となってしまった。

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 花婿の家の外に出て、屋外のセレモニー会場に向かう。会場は花婿の家のさらに上に登って行ったところの平たくなっている場所である。

 すでに女性も男性も沢山集まってきていて、近くに引き出物が山のように積まれており、その場所には次から次へと引き出物が管理人に渡されいくのだが、その場所に向かって長い長い行列が出来ていている。

 そしてその行列に並ぶ村人たちの手には、毛布、布団、皿、コップ、電化製品、アクセサリー、お金、そして名前もわからない伝統的なマテリアルなどがあり、それを一つ一つ管理人がノートに書き込んでいく。すると管理人の男から横に座るように促されたので、その横に座ると料理が運ばれてきた。

 始めに運ばれてきたのはサフランライスにダル(豆)がのっている料理で、それを平らげると、今度はチキンとライスが運ばれてきた。一つの皿に盛られているライスの量は日本の茶碗でいうと4杯から5杯ほどであろうか。驚くほどここの人たちは良く食う。そして食うのに痩せている人が多いのだ。

 以前にある方に日本から是非今度来る時は太る薬を持ってきて欲しいと頼まれたのを思い出した。そして一口食べる。チキンの味付けが中東(シリア)で食べた味付けと全く同じだった事に驚いた。普段から食事の量は多いのだが日常の食事の内容は今日とうってかわって実に質素なもので、味付けもちょっと辛いが薄味なのが多いのだ。

 だが今日のような宴になると、普段はお目にかかれない食事に出会えたりする。それもまた、たまに迎える旅人たちを喜ばせたりするのだ。

 そしてその後、セレモニー会場に新郎新婦が現れる。そして大勢で壮大な食事会が模様されるのだ。そう、また食うのだ。前述した通りここの人たちは実に良く食う。実に良く動く。実に良く楽しむ。新郎は男性たちがいるセレモニー会場に入る。そして新婦は女性たちがいるセレモニー会場に入る。

 新郎はバグポと言われる伝統的な姿で現れる。新婦はバグモと言われる伝統的な姿で現れる。ここで村人全員に新婦がお披露目されるのだ。新婦は昨日とはうって変わって、非常に落ち着いており和やかなる中、食事会が進められた。

 そして非常に淡白な雰囲気の中、変わった催しはなく、非常に慎ましく、おごそかに、その宴は春の風が吹くと同時に始まり、進められ、そしていつの間にか風は初夏のそれに入れ替わり、宴は静かに終わった。お二人ともお幸せに・・。

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2011年5月29日日曜日

34.クッカルツェ村の結婚式。



昨日はインドのテレビやラジオは本日来るであろう聖書に書かれてある終末について一日中放送していたが、一夜明けチクタンエリアの週末はありえないほどの幸福で包まれており、その中心のクッカルツェ村は朝より数多くの村からの来客で色めき立っていた。

 この村のチクタン城方向に小山がそびえていて、その小山の頂上を仰ぎ見ると一軒の家が建っており、気になるのでそこまで登ると家の周りに人だかりが出来ているので、不思議に思い聞いてみるとその家が花嫁の家だと分かった。

 その家の山頂付近に少し広くなっているところがあり、そこにも人だかりが出来ていたので分け入ってみると、炊き出ししながらできた料理をみんなに振る舞っていた。僕もそれをつまみつついろいろまた聞いてみると、花嫁は花婿の一団が来るまではこの家と少し下の方にある家を行ったり来たりしているという話だ。

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 場所が山頂で風も強いのにそれに拍車をかけて雪が降ってきた。どこか逃げ込む場所を探しても見つからなかったので、僕は少し下の方にある家の中に駆け込んだ。家の中から音楽が聞こえて来るのと熱気でこもっているその空気の暑さに驚いた。

 さらに奥に進んで行くと一つの部屋の入り口に人が溢れていたのでそれを押しのけてさらに入って行く。八畳程の部屋に人々々、ざっと数えてみると数十人は入っている。その中心には数人の女性が小さな輪を作り音楽に合わせてフォークダンスを踊っていた。

 フォークダンスの輪に女性が代わる代わる入っては出て行き、音楽も次々と違う曲が流れて行く。このフォークダンスはチクタン・フォークダンスと呼ばれる物でありこのエリア特有の踊りで、艶やかさに裏に喜怒哀楽全てが盛り込まれているようなその舞は、美しく、しなやかに、きらびやかに、時に大人の色気を感じさせる踊りだった。

 肝心の花嫁は部屋の縁のカーテンがある狭い奥に座っていて、顔はスカーフをもっと大きくしたような伝統的なデザインで作られている物で隠されており、ここからではその表情は伺いしれない。そして宴もたけなわ、まつりごとの興奮も最高潮に達して行き、舞はまだまだ続く。

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 その家から出て小山の頂上にある花嫁の家に向かう。山から麓を望むと何十台もの着飾った車列が次々と到着するのが見えた。そして車からは着飾った男たちが次々と降りて来ると列をなして小山の頂上にある花嫁の家に向かう。

 山の斜面を登って来る男たちの伝統的衣装は黒や赤茶や白色の生地で作られたもので、胸にはクリームの緑色に鈍く深く古く、銀の淵の飾りの中に存在しているものが揺らぐ。それらは陽の光に触れると古来の香りを醸すようにも感じる。彼らの中には花婿はおらず、花婿の親類や仲間たちが代わって本日は花嫁を奪いに来たのだ。

 花婿の家はこの村から5キロほど離れたサムラ村にあり、彼はまだその村に滞在しているのだ。彼は親類友人一同が花嫁を奪って連れてくるのをサムラ村で待っているのだ。彼の親類友人一同は花嫁の家に寄るかと思いきやその横を通過し、その小山を越えて向こう側に降りて行く、大勢のオーディエンスたちはその後を付いていく。

 僕らはまるでハーメルンの笛吹きの後を付いて行く子供たちのようだった。その先に何か楽しい事が待ち受けているのではないかという期待から後をつけて行く。そして楽しい事は起こった。下の広場では食事の用意がすでに整っており、大勢の来客者はおのおのの場所に座り目の前に配られる料理に舌鼓を打っていた。

 この壮大なる食事会が終わるときコーランの一説が読まれて食事の〆となった。

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 花嫁を奪いに来た花婿の親類友人の一団は花嫁の家に向かった。僕らハーメルンの笛吹きの子供たちも一団の後を追って花嫁の家に向かう。一団は花嫁の家に着くとその一室に上がり込み、部屋を囲むように座る。

 その部屋には次々と来客が出たり入ったりしているので、よく見ると引き出物の受け渡しをしている。そしてあっという間にこの部屋は引き出物で埋まって行く。そして僕はその部屋から出ようと思い一歩踏み出した。するとあろうことか玄関から数十人もの女性たちが雪崩れ込んで来た。

「!!!」

 僕は玄関に向かおうとするがその圧力で押し戻される。顔をしかめて少し空いた隙間に体を委ねてそれを前進するべく打開策として使おうと思ったが、圧倒的圧力で津波のように襲って来るそれらに押し戻される。靴は脱げ、上着は飛んで行き、靴下も片方が脱げて行く。日本の通勤ラッシュでもこんな事にはならない。

 そして一番奥の部屋まで押し戻されて、女性たちはその部屋に入って行く。この部屋は花嫁の母親とその親族が待っている部屋で、女性たちはその母親に花嫁と別れる前の最後の握手を求めるべく雪崩れ込んで来たのだ。母親はその女性たちとひとりづつ握手をしていく。母親の目には涙が微かに浮かんでいる。

 驚く事にそして最後に母親の娘、花嫁が入ってきた。花嫁は伝統的な衣装で顔を隠している。花嫁は母親の顔を見るなり大泣きした。それはまさに本当の意味での大泣きだった。母親と抱きあって泣き続けている。声を枯らして体を震わせて泣き続けている。

 その鳴き声は家を震わせ、クッカルツェ村を震わせ、オーディエンスたちの心を震わせた。花嫁は次々と親戚たちと抱き合い、がらがらな声をたて、鼻水を出しつつ、時に顔を隠している衣装がずり落ちるほど泣いているのだが、僕は人がこんなに泣いたのを見たのは始めてだった。

 今その泣き声は、大泣きではなく、嗚咽でもなく、それは地響きににも似たまさにありとあらゆる物が振動して村ごと揺れているという泣き様であった。

 家から出てきた花嫁は山の麓で待ち構えている花婿の友人たちの車に向かうのだが、その姿は憔悴し切っており、もう立ち上がれない程の悲しさを体全体から放っていて、両脇を花嫁の友人に支えられながら一歩一歩確実にその山を下りて行った。

 ゆっくりと、ゆっくりと、時には立ち止まり、体を少し震わせて、ゆっくりと、ゆっくりと、時には立ち止まり、空を仰ぎ見て、ゆっくりと、ゆっくりと、そして下って行った。山の麓に降りてきた花嫁はすでに気丈で、しっかり顔を上げ、真っすぐ前を見据え、友人の手も借りずに、飾り立ててある一台の車に乗り込んだ。

 そしてその車は大きく一回空ぶかしすると、砂埃を巻き上げながら花婿のいる未来へ出発したのであった。

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2011年5月28日土曜日

33.世界の終わりとチクタン・ワンダーランド。

 一週間程前よりチクタン村では羊や山羊の放牧が始まった。村中の羊と山羊を集めて一人の羊使いの元、牧草を求めて山に分け入るのだが、この季節が始まると夏が終わるまで一日も休む事無く放牧が続くのだ。だから当然村の朝は早くなる。

 僕が朝早くチュルングスで洗濯物を洗っていると下手から怒濤のような複数の動物たちが駈ける音が聞こえてきた時はすでに遅く、彼らを避けるのが精一杯で僕の衣類に沢山の足跡がつく訳だが、そんな事も含めていい朝だと思う。

 そして彼らの後を追って行くとチュルングスの上手深くに入り込み、山の谷は山羊と羊で埋め尽くされ、彼らはさらに奥のシュクパ・ワンチャンに至るのである。夏にはこのヒマラヤ杉の周りは緑で輝き出し、動物たちは杉の周辺を跳ね回るのである。

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 村からの羊と山羊の追い出しも終わり、チュルングスに沿って降りて行くと、何やら左手の方から子供たちの歌声が聞こえるではないか。そう思いながら左手の家の庭を覗き込むと子供たちがコーランを手にして歌っている。話を聞くと子供たちを集めて早朝イスラム学校を民家の庭で借りて開いてるのだと言う。

 聞こえてきたのは天使の歌声だったわけだ。子供たちはメッカの方向を向いて歌っているのだが教えている先生も子供たちなのである。ここでは子供たちが自主的にコーランの勉強会を開いているのだ。





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 夕方近くになると今度はカンジ・ナラの橋の方が騒がしい。そこに向かってみると村の女性たちが全員橋の麓に集まっている。何事かと思い聞いてみると今日仕事を定年退職するマクリーション村の村人がいるので、それのお祝いのために帰りを待っていると言う。

 定年退職を村を上げてお祝いするのだ。さすがにこの風習には驚かされた。カンジ・ナラの上流から何台もの車列が車のクラクションを鳴らしながらやって来る。その中の一台に定年退職をした村人が乗っていた。車は隣のマクリーション村のパーティ会場に着くと早速宴が始まった。賑やかに食事パーティーが始まる。

 宴もたけなわになるとみんなでコーランの一節を読み上げる。そしてそれが終わると解散になった。インドの公務員は58歳で定年になる。今年はチクタン村から他に二人の定年退職者が出るという話も聞いた。

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 家に戻るとおばあさんが泣いていた。そんなに悲しんでどうしたのかと聞くと彼女の話では今日地球最後の日という事らしい。

 そんなばかなと思いつつラジオを付けてもテレビを付けても(テレビがあったらの話だが)今日のヘッドライン・ニュースは地球最後の日の話題で埋め尽くされている。

 はたまたこれは珍妙な話だと思いいろいろ見聞きしてみると、こんな事のようだ。聖書に2011年の5月21日に人類が滅亡すると書いてあるらしい。そんなことをインドのラジオ、テレビがこぞって取り上げていたのである。

 そして彼女はラジオのニュースで流れてるなら、それは本当の事だろうと思い泣いていたのである。

 僕はそんな事はありえないという事を淡々と彼女に語ると彼女は少し安心したようだった。そんな事も含めて僕が迷い込んだそこはチクタン・ワンダーランドなのだ。

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2011年5月27日金曜日

32.サムラ城

 僕は朝早く起きると、家の手伝いをした。大量の藁を大きな袋に詰めると、おおよそ一つの袋が20キロくらいになり、それを10袋ほど作る。全部で200キロを越える藁の量なのでかなりかさばる。それを一袋ずつ背中に担いでトラックまで運び、すべて積み込むのだ。

 聞くところによるとサムラ村まで運び、それらを牛の餌にするそうなので、僕も同乗してサムラ村まで行く事にする。トラックの荷台に乗り込むとさっそく出発した。風切って走るトラックの荷台に朝の風が心地よく絡んできて、木漏れ日のトンネルの道を行くと、通学途中の子供たちが道端から歓声を上げる。

 太陽の光と緑の影が荷台に同乗した青年の顔に交互に写り込む中、彼は朗らかに言う。

「来年はチクタン村で僕の結婚式があります。是非来てください。」

 僕は出席する旨を伝えると青年ははにかみながら少し笑った。

 トラックはサムラ村に到着し、荷台から降りると青年にどこに行くのかを聞かれたので、僕は頭上高くの山頂に微かにゆらぐように見える遺跡を指差し”サマル・カル(サムラ城)へ”と答えた。

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 サマル・カルへの山を登って行く。小さな山だががれ岩が多くなかなか歩きにくい道だったが、山頂に向かって人が歩いた道筋がたくさん付いているので、その点でいえば分かり易い道でもある。

 10分ほど登り、振り返るとサムラ村が一望出来た。天気も良く、空気も良く、風もなく、音も無く、圧倒的な自然に身を委ねている一片の雲をただ眺めている一人の人間がそこに立っていているだけだった。頂上には20分程で辿り着けた。

 山と川と土台の一部だけを残して建っているサマル・カルの夢の後がそこにあるだけだった。そのすぐ横には小さな花が所々にそれを囲んで咲いており、サマル・カルという名の人工物は花の横に建っていると徐々にある種の自然物に変わっていくようだった。

 面前はサムラ村、振り返るとパルギュ村が一望できるのだが、初夏のそれらは、花のように山頂に静かに咲いているサマル・カルが小さなアクセントとなり、よりうつくしく見えるようだ。ここからの景色はサマル・カルが従で展望が主だ。

 しばらくそこからの景色を楽しみつつ、うつらうつらしつつ、微かな風を感じつつ、そしてまどろんでいく意識の中で、自然と人工の境界が定かでなくなり、自然の中に人間が同化しながら、人間の中で自然が壊れて行き、ここがどこだかもわからなくなり、・・・そして僕はここで少し眠った。

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2011年5月26日木曜日

31.カルギルの日。

 カルギルのポログラウンド(カルギルで一番広いタクシーなどが駐車してある場所)前の道を歩くとカルギル・バザールの道に突き当たるのだが、このT字路の名前をTチョウクといい、ポログラウンドからTチョウクまで道の左側から、なにやらミルク紅茶や塩茶の良香が鼻の周りを遊ぶので、よく見るとそこにはくすんだ赤色やら、はげた緑色やらで塗られた店構えの茶屋が所狭しと立ち並んでいる。

 カルギルは茶屋の街でもある。密度はあの喫茶店天国の名古屋を軽く凌ぐ勢いなので、我が郷土はその点でいうとまだまだよちよち歩きの赤ん坊であるといえる。カルギルの朝はこの茶屋から漂って来る紅茶と焼きたてのローカルパンの匂いで始まる。

 そんな事を考えていると、その中のある一つの茶屋の窓の向こうで紅茶をたてている店のおやじと目が合う。おやじは歯ぐき見せて顔をしわくちゃにしてニッコリ、立ち止まって考える間もなく、僕も日に焼けた顔にアジアの微笑をたたえつつ、あうんの呼吸でその店にゆらりと吸い込まれるように入っていく。

 茶屋の中は仕事前の労働者でところ狭しと埋まっていたから、彼らにはもっとより深くにお尻を移動してもらい、そこにはネズミ一匹分ほどのスペースが開いたので、僕もお尻を小刻みに左右に振りながらその隙間へと滑り込む。

 店のおやじは僕が無事着席したのをちらと見て、寡黙に紅茶をたて始めるのと同時に、棚から卵を二つ指の太いのの間にはさみ込み、フライパンの上でそれを小気味よい音をたてて割る。フライパンに落ちた卵の焼ける匂いの混じった煙は朝の空気と混じり合い、芳醇なカルギルの朝の香りを産み出す。

 スプーンで手際良くかきまぜて作られたスクランブルエッグは朝のまだ星が見えてる時間にスリナガルから運ばれてきた卵たちだ。少し傾いたテーブルに置かれた紅茶とスクランブルエッグ、それに焼きたてのギルダが二枚。

 このギルダはカシミール地方独特のローカルパンで、(レーでも食べられる。)大きな壷を熱して、その内側に小麦粉を練って平たくしたものを貼付けて焼いていく。

 その絶妙な厚みにごわごわパリパリとした焼きたてのギルダは卵を挟むんでかぶりつくと、その食感の上に卵のジューシーさが加わり、はんなりとした甘みが口の中でさわやかに瞬き、その至福な衝撃が食し終わるまでずっと続くのである。

 紅茶で舌を濡らしながら、その至福を味わい尽くすのである。いよいよ食べ終わり、しわくちゃのルピーを一枚ずつ広げてわたすと、店のおやじは”また来いよ。”と目尻の多くのしわを気持ちよく下げながら野太い声で低く言う。こうしていつものカルギルの朝が始まるのである。

 Tチョウクを右に折れたバザールの中で、多くの果物野菜の屋台が赤や黄や緑などの多くの色を鮮やかに発色させているのが目に飛び込んで来る。5月に入り雪で半年以上閉ざされていたゾジ・ラが開通すると、スリナガルやパンジャビ方面から数多くの果物野菜が運ばれて来る。

 バザールを色豊かに彩っているのはパンジャビ方面から運ばれてきた果物野菜で、バナナ、マスクメロン、ウォーターメロン、マンゴ、トマト、ピーマン、きゅうり、大根、じゃがいも、にんじん、たまねぎ、青とうがらし、キャプシキャンなどが淑やかに華やいでいる。

 この中のバナナにはちょっとした思い出があり、僕は去年の初夏にアチナタウン村にて車の中で泥のようになって眠った翌日に、木々の間からやわらかなシャワーのように降りそそぐ朝の天使たちに起こされ、道端に流れ込む湧き水で顔を洗っていると、木々の間から現れたうら若き村の小娘たちに一本のバナナを貰ったのだが、その時彼女たちはそのバナナの皮をさっそうとむくと、懐から果物用の小さなナイフを取り出して、それでバナナの縦の方にサクッと切れ込みを入れ、そこに塩をささっと塗り、渡してくれたのである。

 僕はバナナに塩をつけて食べるのは始めてだったので、躊躇しつつ一口食べると熟したバナナの甘みが押さえられているのと同時に、今まで感じ得なかった繊細な食感と芳醇な香りが立ち上がってきて、味、食感、香りと三つが口の中で踊ったのをよく覚えている。 

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 バザールの外れにミッション・スクールがあり、それの道を挟んで反対側にカルギルの街の天上に続く階段が続いており、街並が一望できるその階段を感嘆しつつ、一段一段登っていくと、ある店の屋根では売り物の繊維を色づけしたものを初夏の太陽のもと乾かしているバルティ職人の姿や、ある家の屋根では赤いスカーフで頭を優しく抱いているお母さんが赤ん坊と一緒に洗濯物の下でうたた寝しているのが見えたりする。

 そして息を切らして登り切った場所に威風堂々と建っているのがカルギル・ミュージアムである。

 この博物館ではカルギルの街を貫いているシルク・ロードにて、あのころ多くの国々、民族と交易をしていた懐かしい栄光の時代に集められた貴重な物たちが、密やかにその頃の思い出を人々にささやきながら、彼らは語り部としてここで寝起きしているのだ。

 それらの品々をちょっと覗き込んだだけでも、中央アジアから1896年に運び込まれたシルク。16、17世紀のモンゴルから19世紀のバルティスタンから18世紀のタジクから18世紀のトルコから17世紀のカシミールからの杯。17世紀の中央アジアからヤクの皮で作られた靴。

 1735年の中央アジアからの馬のサドル。17世紀のキリスト教徒が持ち込んだ多くの薬瓶。1945年の日本が負け第2次世界大戦の終焉を伝えるニュースペーパー。

 ハグニス村からの古き衣装の数々などが我先にと語り始めるのが伺える。シルク・ロードの数多くの品物はその時代の様々な国々の匂いを現在に伝え、これからも伝え続けるのである。

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 カルギルの街の人や文化の交流の季節は今年もまた始まったばかりである。独特の芳香を漂わせるこの街はシルク・ロードの時代より続いているトレーダーや旅人の重要な文化の交差点であり、人間の混沌や優婉や厳峻や悲愁が瞬き通り過ぎる場所なのである。

 小さな茶屋の赤い塗装がはげたテーブルの上で、商人たちは細いパイプの先から出る煙をくゆらせて、大小の商談についてその鋭い眼光を日に焼けた肌とたおやかな表情の影に隠しつつ、大胆かつ声低く語り合っては、泣いたり笑ったりしているのだが、それらがこの街では今日もまた星の数ほど明滅しているのである。

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2011年5月25日水曜日

30.ヨクマカルブー村の岩絵。

 朝、鳥とヤクの鳴き声に起こされた。僕はテントを出ると水場で頭と顔を濡らし、そこに石けんをこすりつけつつ泡立たせ、くみ上げた冷たい地下水でそれを洗い流す。タオルで濡れた頭を拭きつつ、疲れたような歯ブラシによれよれのチューブから絞り出した物で歯を磨く。

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2011年5月24日火曜日

29.ヨクマカルブー村。

「この自転車を押して峠を越えます。」

「自転車を押して峠を越えるのは無理だね。」

 茶屋の主人が言うのを僕はチャ・ンガルモーをすすりつつ、どこ吹く風と言うように涼しい顔で聞いている。

「自転車はこのシャカール村に置いて、足だけで峠を越えるのを勧めるね。」

 茶屋の主人がそう言うのを横目に、僕はカシミリー・パンのツォ・ツルーにかぶりつきながら耳に入ったほこりを左手の指で掻き出している。

「シュクリ・アラー、ビスミラ・・・」

 そう言うと僕はポケットからくちゃくちゃのまま20ルピーを取り出し、茶屋の主人に渡すと男は無造作に汚れた服の首もとにそれを突っ込みんだ。僕は自転車を押して、シャカール村のマーケットから峠に入る道に向かった。

 パンレイ・ラ(ヨクマカルブー峠)。険しい山脈の尾根伝いを龍のように走る道に、容赦なく吹く強い風と強い日差しが旅人をいじめ、有史以前より彼らを苦しめてきた峠道は6キロほど続く。僕はつづら折りの道を自転車を押していくが、ふくらはぎが言う事を効かなくなり、途中筋肉をほぐしながらゆっくりゆっくり進む。

 それから山脈の尾根伝いの道に差し掛かり、この世の物とは思えない壮絶な風景にため息しつつ、黄泉の国からの視点は造山運動の地殻変動の様を体感させられるが、その様と呼応するように体力は徐々に黄泉の国に吸い取られていく。強い風を体全体で受け止め、それを切り裂くように進んでいく。

 薄い空気は断末魔のようにきゅるきゅると時折音をたてては耳元で渦巻きつつ囁き、僕をからかうように彼らは次から次へとやってくる。一時間ほど歩くと峠が見えてきた。山頂部分を舐めるように道はこっちの世界からあっちの世界へ続いている。

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 その時だった。

 自転車の後ろから異音が聞こえたので振り向くと、後輪のスポークが付いた鉄の輪っか部分が割れていた。そしてタイヤの中を覗くとチューブはバーストしてこの世界にごみをひとつ新たに生み出していた。

「やれやれ、こんな峠道でどうすんの君。」

 と思いつつ自転車を蹴り上げるが、どうする事もできないので今までの2倍ほどの力で自転車を引いていく。絶妙なタイミングで雲は厚くなり、風は喜んだように吹き乱れ、遊びたくないのに風は僕と遊び、自転車の後輪は阿鼻狂乱の声を上げる。1時間30分ほど格闘し続けると下界が見えてきた。

「!!」

 ヨクマカルブー村。茶色い山脈に囲まれたその緑は、野獣に囲まれた美女のような様相を表しており、彼女は今までにたくさんの旅人を温かく向かい入れてきたようだ。小さなお城がある村と言う意味を持つこの村は、本当に今でも朽ちる事が無い小さな城を懐に抱えている。

 僕はこのお城ことヨクマカルブー・カルがよく見える位置にテントを設置していると、いつものように村の子供たちが集まって来る。

 子供たちにテントの幕営を手伝ってもらいながら、僕は峠越えに並ぶもうひとつの重要な主題を思い浮かべた。どこか遠くの村でヨクマカルブー村出身の男と会い、その男が言う話に寄るとヨクマカルブー村にも岩絵ことスキンブリッサがあるという事だった。

 僕はぼろぼろになった疲れた体にムチを打ち、スキンブリッサの捜索に向かう。村人にスキンブリッサについての聞き取りを行うが、最初の数人は知らない様子だったので、村の下手にまわると、農作業をしている村人が遠くの山の頂上を指差した。

 さっそくその山に向かい、1時間ほどかけて道無き道を登っていき、時には足を滑らせて小さな滑落をしつつ、やっとの思いで山頂に到着して、その付近をまた1時間ほどかけて捜索したのだが、ヨクマカルブー村の女神は僕に微笑んでくれなかった。女神も時には休息が必要らしい。僕は今日はゆっくり眠って明日の女神に会おうと思った。

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2011年5月23日月曜日

28.ダーチェ村の岩絵。

 ダーチェ村の岩絵のうわさを村人から聞き、そのうわさを確かめるべくダーチェ村に赴く事にした。最近、次々と岩絵の話を聞き、チクタンエリアのどこにでもあるような気がしてきたが、でも岩絵は希少なものなのである。

 このエリアは岩絵がたくさんある特殊な場所というだけで、やはり岩絵が見つかるか見つからないかは砂漠の中の針を探すような希少な可能性なのだ。自転車に乗りダーチェ村へ向かったのだが、途中のサムラ村でも面白い話を聞いた。サムラ村の裏に高い高い丘が広がっている。

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