Saturday 30 April 2011

17.再生。

 チクタン村ズガン地区からカンジ・ナラを下流に向かって1時間ほど歩くとマングモルという村見えて来る。路傍には店が軒先をならべて、競ったように立っている。

 20軒以上はあろうか、しかし営業している店は少ない。年老いたものたちが一日中店の前に座っていて、今年の作物の出来の予想だとか、往年のクリケットの名選手の話だとか、かみさんのぐちだとか話は尽きない。

 店はこんなにたくさんあるのに肝心のマスジドがどこにあるこか皆目検討がつかない。男にたずねると店の裏に建っていると言う。覗いてみるとそこには古ぼけた建物がまるで眠るように横たわっていた。

 建物の扉を開くとやっとそこがマスジドだと確信するに至る。窓から差し込む粒子を包み込んでいる光が、一面に引きつめてあるジャネマスを浮き上がらせていたのでそれと分かったのだが。

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 少し歩くとくたびれた橋が架かっている。橋は足下を先の洪水に大部分を食われてしまい、その凶暴な歯形が未だ残っており、かなり傾いていた。僕はなんとかその橋を渡り切り川の向こうの村に行く。アーイート村が見えて来る。

 この村は非常に小さな村で4、5軒ほどで形成されている。お墓を囲んで家が墓守のように建っており、大声で来村を知らせたが誰も出てこなかった。

 僕はその家々の左手に続いている小道を進んでいくと、反対側にも家が建っていた。その家は非常に古く見え、岩の崖のふちの部分をうまく使い、崖下から崖上までまるで芋虫のように家がへばりついていた。

 その外見はちょっとしたパレスのようにも見える。その家族は近くの農地で土地を耕していた。僕は家族の男に大声で一言二言尋ねると、家はやはりそうとう古いものだという事がわかった。

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 僕はカンジ・ナラを2、3分ほど戻り、T字路を入っていく。しばらく進み、架かっている橋を渡り切り左に進むとハグニス村にでる。でも右側に目をやると学校が見えたので僕は訪ねることにした。

 学校の先生が向かえてくれた。その男の話によると学校の名前はガバメント・ハイスクール・ハグニス。男の子は30人、女の子は35人。先生は10人とわりと中規模の学校だ。僕は男と話をし終えるとハグニス村の深部に向かった。

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 ハグニス村の中心には30分ほど歩くとたどり着く。その途中は先の洪水で壊れてしまった家や農地が延々と続くが、川の淵には新しい家も建ち始めている。街の中心にある壊れたマスジドのすぐ脇では村民たちが力を合わせて堤防を作っている。セメントを入れた鉄の入れ物が左から右へと移動する。

 村民たちはかけ声をあげて女性も男性も手から手へセメントを移動している。端にいる男はセメントを受け取ると足下の木枠に流し込む。今度は空になった入れ物が右から左へと戻って来る。村民たちの顔にはすでに悲壮感はない。乗り越えたのだ。

 未来への生への希望を胸に抱き、このハグニス村は村民の手ですでに回復の糸口が微かだが確実に見え始めている。遠くから子供たちの声がこだまする。遠くから動物たちの声がこだまする。遠くから春の風の声がこだまする。そう長い冬が終わりハグニス村にも再生と言うなの春がやって来たのだ。

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Friday 29 April 2011

16.上流に向かって歩く。

 細かい雪が降っていた。しかしその雪の向こうに太陽が透けて見える。今日のチクタン村は太陽の光に雪が反射して春の眠たい朝の陽気を演出していた。

 カンジ・ナラの上流から流れて来る水は雪解けの水と乾いた砂が混ざり合って、春の陽気に逆らわず徹底的に緩慢にかつ豊富な水量でチクタン村のという名前がこの地域に根ずくずっと前より、毎年変わらず気の遠くなる作業し続け、このエリアの地形を作ってきた。僕はズガン地区のカンジ・ナラにかかる橋を渡り上流に向かっている。

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僕は上流に向かって歩いている。何度も訪れた村々を通過する。男が道の端で工事をしていたので話を聞くと、このエリアは先の洪水で電話線がやられたのでその工事をしていると言う。見たところその男の手にあるのは電話線だ。

 電話線がやってきた方向に目をやると山を乗り越え、川をくぐり、林をぬけてととてつもない旅路をしてきたようだ。この男が一人でやったのかと思うと感服してしまう。そして僕は上流に向かって歩いている。

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 僕は上流に向かって歩いている。ワルンマ村が見えて来る。僕はその村の高台にある学校に向かった。ガバメント・ミドル・スクール・クッカルチェ・チクタン。男の子が8人、女の子が18人、先生が4人の小さな学校だ。あごに髭を蓄えた男が僕を学校に招いてくれた。

 男はスリナガルから赴任してきたと言う。僕は男に去年スリナガルに行った話をして、スリナガルは美しく素晴らしい街だと褒めると、男は右手で髭を触りながら、目を爛々に輝かせてそうだろうそうだろうと相づちを打っている。僕はこの学校の生徒たちの写真を取り終えるとまた次の村へ向かう。そして僕は上流に向かって歩いている。

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 僕は上流に向かって歩いている。テムラン村が見えて来る。ただ一軒だけカンジ・ナラのほとりに立っている。それを村と言っていいのかは疑問だがとにかく家は立っていた。白い犬が尻尾を大きく左右に振って吠えている。この犬はシャカール・チクタンエリアでただ一匹だけの犬なのだ。

 僕は家族と一言二言会話を交わし、写真を撮る。家族の一人が向こう岸にも違う村があるというので僕は案内してもらった。橋を渡って数分歩くとその村は見えてきた。クスクシェ村だ。

 この村もただ一軒だけの村で、家の家族は農作業をしている。僕は彼らと挨拶を交わすと写真をとり、この村を後にした。そして僕は上流に向かっている。

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 僕は上流に向かって歩いている。チュリチャン村が見えて来る。村の中を散策していると右から左に向けて羊の群れが横断する。羊はメェと鳴きながら次々と現れては消えていく。そろそろ冬毛を刈り込む季節がやって来たようだ。

 最後尾の羊使いがお茶をごちそうしてくれると言ったが、僕が断ると、まぁまぁそう言わずというようなそぶりと笑みにやられて僕はその男の家についていくことにした。男の家は村の中腹にあり、敷地に大きな羊を飼っている囲いがある。

 男の家に入りグルグルティを頂く。男の家族は数えられる限りでは5人で、丁度昼食の時間だったので僕は誘われが、丁重に断った。今日はこのくらいにしてズガン地区に戻ることにする。そして僕は下流に向かって歩き始めた。

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 ズガン地区に着いて窓辺で体を休めていると、外から聞き慣れない音が聞こえてきた。エー、エーとかすかだがしっかり聞き取れる、弱々しいが生命の力強さを内包しているそんな音だ。窓から僕は顔をだすと丁度目の高さにある山羊のシェルターの中には生まれたての羊の赤子の双子が母親羊に体を丁寧に舐められていた。

 新しい生命の誕生だ。春という季節、村々を散策するとさまざまな動物たちの赤ん坊の鳴き声が至る所から聞こえて来る。そしてその声のする方に顔をむけると赤ん坊が頭上から覗いていたり、足下から覗いていたり、時として肩に落ちてきたりする事がある。

 チクタン村の時間はゆっくりと確実に輪廻していて、同じ時間の中に進行している様々な生命の歴史は決して記録されることはないが、それらが生み出している見えない時間こそ、チクタン村の深淵であるが優しくて、広大であるがみずから主張せずただ身を委ね、それらが静かにゆらいで一枚一枚丁寧に積み重ねられてこの村の歴史は作られているのだ。

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Thursday 28 April 2011

15.公営バスの話。

 四日前の事だ。僕はカンジならにかかる橋の麓で立っていた。

 朝の七時。朝の空気は険しく厳しく、まだ陽が届いていないチクタン村は長くて深い影のかにあり、吐く息は白く煙霧のようであった。七時発着予定のカルギル行きの公営バスが時間通りにズガン地区にくる。始めはそう信じていた。でもバスはこない。

 七時三十分、朝の太陽がチクタン村の高い山々のを越えて顔を出し始めると、やっと村にも少し陽が届くようになる。空気が朝の日差しを浴びて熱を持ち始める。でもバスはこない。

 八時、日差しの範囲が徐々に広がり、村の細部に陽が届き始め、動物たちもざわめき始める。でもバスはこない。

 八時三十分、村は完全に目を覚まし、影と光は入れ替わり、早朝の農作業から戻ってきた村人は、あさげの準備に余念がなく、家々の煙突より細くて白い煙が揺らいでいる。でもバスはこない。

 九時、朝の登校を始める子供たちが家から徐々に吐き出され、チュルングスでは食器を洗う女たちの姿が見られ始める。そんな時、遥か彼方にバスの姿が確認できた。

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 やって来たバスは、年代物の製造国不明のバスで、人はすでに満員近く詰め込まれており、僕が乗り込むと席はまだ後ろに一つだけ空いていたので、そこに座る。

 隣の人とは肩をふれあいつつ、バスが右に傾くと乗客も右に傾き、左に傾くと乗客も左に傾き、突発的な事象がおこりバスが飛び跳ねると乗客も飛び跳ねる。僕は前の席の背もたれから飛び出ているスプリングが左に揺れたり右に揺れたりしているのをじっと凝視していた。

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 バスの車掌は体を乗客やシートの角や足下の鞄にしこたまぶつけながら運賃の徴収に回っている。僕は男に130ルピーを渡し、男はそれをわしづかみにすると無造作にポケットに突っ込んだ。バスは右に大きく揺れた。僕の右前に座っている女がバスの窓に首を突っ込み嘔吐している。

 それを横目に僕は隣の男と会話を交わす。男の顔はアジア系が少し入っており、むっちりとよく太ったその体躯は、バスが揺れるたびに揺れる。男はサンジャク村から乗ってきたと言う。僕はサンジャク村のアプリコットを褒めると、男は左手にはめているセイコーの時計を僕に掲げ、日本製はすばらしいと満面の笑みとともにそれを褒めた。

 バスはナミカ・ラをその年式では考えられないパワーで峠をひたすら登っていく。右に左にバスは体を大きく揺らせ登っていく。ナミカ・ラが見えて来ると、みんな一斉にあの呪文の言葉を唱え出す。

「アラー・フマー・ソアレ・アラー・モハンマ・ワ・アリー・モハンマ」

この言葉を三回唱えると、満足したように再びバスの軋む音以外は静寂に入り、空は青にかざすと宇宙が透け、山は動かず、谷は深い。

 バスに揺られ3時間30分、カルギルの街が見えてきた。インターネットをするべくカルギルに再度入るのだが、往復で7時間の道のりである。1泊以上の旅になるのだ。インターネットがなければ不便だとある人は言うかもしれないが、僕にとってはインターネットがあるから不便だなと思う事がある。

 こんな中央アジアの山岳地帯の牧歌的風景の中に住んでいるとそんな事も考えてしまう。それからもう一つカルギルの街を見る度に考えてしまう事だが、100年前のこの街を見てみたかった。陸の貿易行路の交差点。商店ではあらゆる言語が飛び交い、商人たちは体を大きく使って異言語間の意思疎通をして商取引をしている。

 北の東トルキスタンからきた商人はラバの横で疲れた体を安めタバコをふかしている。チベットからきた僧はレーへ教典を運ぶ途中、バルティ商店街のチャイ屋でトゥクパを啜っている。西から来たペルシャ人は路上に多くの絨毯を並べて、中国人の商人と何か言い争いをしている。

 どこから来たのか流れの音屋は、次の雇い主が決まるまで楽器の掃除に余念がない。僕はそんな光景を見たかった。

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Wednesday 27 April 2011

14.ひょうが降る。

 
 僕はカンジ・ナラ沿いの道を下流に向かって歩いている。その道は乾燥していて車が通る度に砂を舞いあげたり、山側から流れて来る水により泥道になっていたり、舗装はしてあるがほとんど剥がれてでこぼこしていたりと一筋縄ではいかない。そして今日の雲は厚くて速い。風が生まれているのだ。

 その風は砂も舞い上げ、僕の体も前より押さえつける。そして僕は次第に歩みも遅くなる。一瞬とびきり大きいのがふいたかと思うと次の瞬間、白い小さな固まりが降ってきた。ひょうだ。僕が左手に持っているドロワー帳の描きかけの地図の上にそれはぱらぱらと音を立てて落ちる。

 ほんの少し冷たくなった手でウィンドブレーカーのフードを引っぱり上げる。フードにぱらぱらと落ちるひょうの音が反響する。そして僕はふたたび歩き始める。各村と村の間は非常に近い。隣の村には2、3分でついたり5分、10分でついたりと様々だが非常に近い。

 そして各々の村には必ずウォーターポンプが設置してある。いつも常に奇麗な水が確保できるのだ。僕は各村の男たちや女たちに挨拶をする。彼らは「ナンソミ?」「ガルノミン?」などと返して来る。どこに行くのか?どこから来たのか?さて僕もどこに向かっているのか皆目検討がつかない。

 そんなときは「トゥール」と答える。僕は下流へ向かっているのだ。たぶん。彼らは僕の答えに満足したのかカップを口元に持っていく動作をして、「お茶をのんでいけ」と言う。

 僕は全ての村でお茶を飲んでいたら、胃袋がパンクして行き倒れになってしまうので、相当疲れている時以外は断る事にしている。僕は彼らに納得してもらおうとするが、それでも飲んでいけと言われたときはありがたく頂く事にする。

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 しばらくよたよた歩いていると後ろからヨセフのお父さんが追いついてきた。僕は軽く挨拶をして再び歩き始める。今日は天気が悪くひょうも降ってきて寒い日だなどと会話をしながら歩く。彼のよく日に焼けた横顔はよく働く農夫のそれだ。屈強な体躯にその優しいまなざしは父親としてのそれだ。

 カンジ・ナラを挟んで向こう岸の山の麓に小さな村の固まりが見えてきた。彼はタグマタンだと言う。僕らは橋を渡り村に向かって並木道を歩いていく。途中木の枝を伐採している男がいた。道いっぱいに木の枝が散乱している。そしてその木の枝を束ねる作業をしている。

 この枝は家の屋根に使われるのだ。沢山の木をたくさんルーフにあたる位置に配置して屋根を作っていく。木で編み込んでできた屋根はラダックの伝統的な手法で、冬は暖かく、夏は涼しく、タップで受け損なった料理の時に出る煙はこの屋根から抜けていく。

 僕らは枝をまたいで進んでいくと道の突き当たりに白い土壁の緑の柱を抱えたマスジドが見えてくる。タグマタン・マスジドだ。そのマスジドの前を通り過ぎると目の前の山に抱えられるようにして、台形型で安産型のずっしりと重そうな古い古い家並みが目に飛び込んで来た。

 タグマタン村だ。いつからそこに立っているのだろうか。旅人でも破れない静寂の中にその古い家並はある。聞こえるのは白色と黒色を体に携えたポロコと呼ばれている鳥の鳴き声だけだ。その鳥は春になると子作りのため人里にやってくる。何年も何百年も同じ時間が繰り返されてきたのだ。

 鳥も変わらず、村も変わらず、ただ変わってしまった僕のような遠い世界からきた人間は、この世界は取り残されているのではなく、すべてを知った上でじっと何かを待っているような気がしてならない。遠い世界の僕らのほうが間違った道を歩んでるのではないか。

 その遠い世界をこの世界はじっと凝視して、熟考して、静かに進みつつ立ち止まり、静謐の中にいながらゆっくり流転して、何かを待っている。そんな気がしてならない。

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 ひょうはまだ降っていた。体が冷えてきたので僕はズガン地区に帰って、タップにくべた薪の火で体を温めようと思った。見上げるとポロコが鳴きながら飛んでいた。ひょうは降り続け、ポロコは鳴き続け、僕は歩き続けた。
 

Tuesday 26 April 2011

13.地図作り

 今日はチクタンエリアの小さな村々の地図を作る事にした。ズガン地区を橋を渡り出て行く。そしてカンジ・ナラという川を左折してしばらく行くと大きな岩山の麓に売店が見える。その売店を通り過ごすとメイン・マーケットに差し掛かる。

 メイン・マーケットと言ってもショップが2、3件あるだけの小さなマーケットだ。青年たちがよくマーケットの通りでよくクリケットをしているのを見かける。僕もたまに参加したりするのだが、野球とクリケットのバッター(?)は基本的に打ち方が違う。僕は力任せに打ち返すのでよく思われない。

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Monday 25 April 2011

12.チクタン村の農作業とプラタンの話。

 チクタン村の農作業の季節が今日一斉に始まった。まさに毎日眠たい目をこすり続けていた村が、冷たい水で顔を洗うがのごとく目を覚ましたのだ。農作業が始まる前日より自分の農地を見に行く人がいたりと、みんななんだかそわそわしている。そしてとうとう朝が来た。

 家族総出で始まる農作業は、一年で一番忙しい行事のひとつだ。まず始めに肥料土を農地にまいて行くのだが、これがまた大変な作業だ。肥料土をスコップで女性が背負っているツェポといわれるかごの中に入れて行くのだが、背負う方も入れる方も大変な作業なのだ。

 女性は満杯になったかごを背負って農地まで歩いて行き、乾燥している土地の上に肥料土を落として行く。一回土を落とすと小山が農地の上に一つできる。この小山が縦横に碁盤の目ではなく碁盤の碁のように農地が一杯になるまで続けるのだ。僕は半日で腰が悲鳴をあげてしまった。

 そしてその後にこの肥料土の小山を農具でならして行くのだ。広い農地を手作業で。ならし終えた後は種をまいていく。チクタン村では小麦の種をまく。そして最後には畑を耕すのだが、10年ほど前までは牛を使って耕していたのだが今はトラクターを使って耕す。

 このトラクターはズガン地区では2台しかないので村人でシェアして使うのだ。こうしてチクタン村の農作業の季節は始まる。まぶしい春の日差しに中、鶏の鳴き声とともに村人は動き出し、牛の鳴き声と呼応して農作業は続き、羊の鳴き声とともにその日の農作業を終えるのだ。

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 午後はプラタンに登る。プラタンとはチクタン村ズガン地区に沿って流れているカンジ・ナラを挟んで反対側にそびえるグランドキャニオンのような反台形型の山だ。ズガン地区よりカンジ・ナラを右に上流方面に5分ほど歩く。

 途中道を左折し登って行くとプラタンに続くつづらおりの道になっており、30分ほどで頂上にたどり着く。目の前に広がる頂上は果てしなく広い月面ようでポロやクリケットの試合が並列して何試合もできそうな広さだ。プラタンの頂上の端っこは垂直というよりも鋭角に奈落に落ち込んでいる。

 土質が砂を固めたような感じなので端っこに立つと崩れ落ちそうで非常に怖い。だがここからの景色は、まるで鳥の目にでもなったように風を感じながらの浮遊感と視界高角感が三半規管を狂わし、万有引力がまるで幻かのように人が空を飛べるという錯覚を起こさせるのに十分なものなのだ。

 目の前に広がる風の谷のチクタン村の美しさにため息がでるが、そのため息も下方からの吹き上げの風にかき消されてしまう。

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Saturday 23 April 2011

11.学校とチョルテン。

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朝食を済ませると僕は学校を回る事にした。カンジ・ナラに架かる木造の古い橋の麓に二つの学校がある。チュルングスの小川に一番近い学校の名前はガバメント・ガウス・ミドル・スクール・チクタン。そして次の並びにあるのが、マスミ・パブリック・スクール・チクタン・ズガンだ。

 僕はまず最初の学校のガバメント・ガウス・ミドル・スクール・チクタンに顔を出す。覗いてみると、青空の下で授業をしていた。僕は先生に誘われるままに土の上に置いてある椅子に座り、この学校についての話を聞いた。男の子が20人、女の子が25人、先生が8人で教えている学校だ。

 日本でいうところの小学校に当たるのだが、6歳から英語の教育が始まる。次に隣の学校にお邪魔する。マスミ・パブリック・スクール・チクタン・ズガンだ。この学校は日本でいうところの中学校にあたる。ここでも青空の下で授業をしていた。黒板をイーゼルに立てて、それを囲むように半円を描いて生徒たちは座っている。

 中にはたまにあくびをしている生徒もいるが、大部分の生徒も先生も真剣だ。この学校は男の子が24人、女の子が10人、先生が5人で構成されている。教室を覗くとかなり薄暗い。昼間は電気がこないので外で授業をしたほうが効率があがる。それに暖かい。

 僕はこの学校を後にして、カンジ・ナラに架かる橋をわたり左手に川に沿って歩いて行く。春先の日差しは強く、風はない。たまに木の束を背中に背負って行き交う村人と挨拶をかわす。

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「アサラーマ・アレイコム、アラミヨタ!」

 高く鋭角にそびえる岩山の麓のショップを通り過ると、メイン・マーケットが見えて来る。メイン・マーケットと言っても店が2、3軒連なっているだけの愛らしいマーケットだ。そのマーケットの裏側の奥の方にイマンバラ・マスジドが慎ましげに、かつ誇らしげにそびえ立っている。

 メイン・マーケットの前の道をしばらく歩いて行くと左手に降りて行く道がある。僕はその道に入り下って行く。その先にあるのがガバメント・ハイヤー・セカンダリー・スクール・チクタンだ。日本でいうところの高校だ。先生に中に案内してもらう。

 校庭は広くてその外側にも広大な土地が広がっていて、そこでクリケットやポロの試合も出来るようになっている。ここでも授業は青く高い空の下だ。男の子が80人、女の子が42人、先生が19人の学校だ。教室を一回り案内してもらって僕はチクタン村ズガン地区の帰途についた。

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 ズガン地区の裏山にはゴンマ・チョルテンという名の遺跡がある。村人によってはラーンイ・ズゴウという呼び名になる事もある。チョルテンというからにはそれは仏教遺跡なのだ。しかし僕や皆様がご存知のチョルテンではなく、干しレンガで作られた巨大な朽ちかけた壁だけが残っているのである。

 知らずに村の迷路に迷い込みつつ、そして開けた裏山に至る時、この巨大な壁が始めて目に入って来ると人はぎょっとする。それは圧倒的な存在感であり、徹底的な静けさであり、悠久の彼方への思いのかけらなのだ。

 村人にしか知れず、外の人に発見されるのを待ってたかのように、彼はゆっくり眠りから覚める。そしてきっとこうささやくのだ。

「仏教はどこだ?」

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Friday 22 April 2011

10.パルギュ村にて。

 朝起きてヨセフとパルギュ村に向かう。パルギュ村は去年の洪水で、ハグニス村についで被害が大きかった村だ。パルギュ村はチクタン村よりカンジ・ナラを上流に12キロほど行ったところにある。朝の太陽が雲に見え隠れする天気の中、僕らはハグニス村に向かった。

 20分ほど歩くと、前方右手にたくさんの人が集まっているのが見えた。聞くと生まれたばかりの子供に名前をつけるお祭りをやっているのだ。僕らもそのお祭りに招待された。このお祭りにはシャカール・チクタンエリアの一家族から必ず一人は参加している。だから総勢でかなりの数になっている。

 みんなは座り込んで和気あいあいとしていて、話が弾んでいる。グルグル茶やお菓子が振る舞われる。そして炊き出しのバトゥが大きな固まりのマトン付きで出されると、空も晴れ渡ってきて、アポ爺も途中からの参加となり、宴は盛り上がって来る。最後はエリアの代表者からイスラムの祝詞が読み上げられ、宴はしめとなる。

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 僕らは再び歩き出す。ラジー・カルの雄大な岩山の下を通り過ぎ、しばらくいくと大きなケーブが左手に迫って来る。それは頭上の岩山の高いところにあり、ブッディストたちがそこで亡くなった人を火葬して、骨のままその深くえぐり込んでいるケーブに葬るのだ。見上げるとケーブのいたるところに火葬の黒いすすのあとが見えた。

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僕らは、再び歩き出す。しばらく歩くとクッカルチェ村が見えて来る。この村は多くのムスリムの中にひと家族だけブッディストが住んでいる。昔は多くのブッディストが住んでいたのだが今はひと家族だけになっているのだ。

 とは言っても現在も40人ほどがここで生活してきたのだが、そのほとんどがレーの街へ働きに出ている。しかしブッディストとムスリムの関係はクッカルツェ村では非常にいい。子供たちも宗教に関係なく遊んで、大人たちも宗教に関係なく団らんをしている。

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 僕らは再び歩きだした。いくつかの村を通り過ぎ、2時間程歩いただろうか左手奥の山の懐にパルギュ村が見えてきた。パルギュとは天使たちという意味で、訳すと天使たちの住むところという意味だ。

 だが去年の夏の洪水の時は、その天使はどこかに外出中だったのだろうか、低いところにある村や畑や学校は、みんな流されてしまって岩や倒れた木や泥だらけになっている。

 お邪魔した家のある女性が僕に尋ねてきた。

「この村をどう思う?」

「天使たちの村の名の通り美しい村だと思います。」

「うそよ、こんな泥だらけの村・・」

「・・・。」

 その女性は悲しい表情でそう呟いた。

 僕は多くのNGOやボランティアの方たちに入ってきてほしいと切に願う。僕一人での力では限界があり、目の当たりにしたこの絶望的な景色の前で、僕はただ立ち尽くすことしか出来ないのが辛かった。

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僕らは今来た道を帰って行く事にした。途中のクッカルツェ村でブッディストの家族にお茶を誘われたので寄る事にする。その家族の家は大変古いものでな家にはゴンパのような建物も併設されていた。女性が伝統的な衣装で僕らを向かえてくれる。

 僕はそれを見た時確信した。クッカルツェ村の仏教徒はこれからも何代も何代も受け継がれていく事だろう。それは廃れる事なく永久に続くだろう。でもその根拠なき確信は、神なき村のようなもので非常にデリケートで壊れ易いものだというのも僕は分かっていた。

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 帰り道、忙しく日本人の観光客を載せた車の一団のツアー客と擦れ違う。ダー・ハヌー方面からカングラルに抜けて行くだけだと思うが、ツアーの人たちと僕は一言二言話をすると、なんだかすごく懐かしい気がした。

 愛すべきチクタン村にいる僕から愛すべきツアー客へ、このチクタン村の事を日本に帰ったら是非、多くの日本の方々にあるがまま、見たままを話して欲しいと思う。そして一人でも多くの方々にこの村の事を気に留めて欲しい。そう思ってやみません。みなさんお元気で!!

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